ハザール王国の歴史③「キエフ・ロシア国」の台頭と「ハザール王国」の衰退

■■第3章:「キエフ・ロシア国」の台頭と「ハザール王国」の衰退

■新たな強敵ルス人の台頭とユダヤ教への改宗

アラブ帝国に代わって、新たな強敵が北方から台頭してきた。バイキングと呼ばれる北方部族の雄ルス人(後のロシア人)である。834年、ハザール王はビザンチン帝国に、北方への防御(対ルス人対策)のための砦を築くための援助を求め、直ちに建設された。こうして「サルケル砦」が誕生した。
この「サルケル砦」のおかげで、ドン川の下流域や、ドン・ボルガ水路に沿ったルス人の艦隊の動きを封じることができた。10世紀半ばまでの間、全体として見ると、ルス人の略奪は主としてビザンチン帝国に向けられていた。それに対してハザール人とは、摩擦や時には衝突はあったものの、本質的には交易を基礎とした関係を結んでいた。ハザール人は、ルス人の交易ルートを押さえることができ、ビザンチン帝国やイスラム教国を目指して国を通り抜けていく全ての貨物に10%の税金を課すこともできた。

●ところで、この時期のハザール王国内では、国の未来を左右する大きな変動が生じていた。9世紀初頭のオバデア王の国政改革(799~809年)でユダヤ教に改宗してしまったのである。これによってハザール王国は世界史上、類を見ない「ユダヤ人以外のユダヤ教国家」となった。
しかし、ハザール王国のユダヤ教への改宗は、次第に悪い結果を生み出していった。もともとハザール王国は、人種的に異なる種族が混ざり合ったモザイク国家である。ハザール王国のユダヤ教への改宗は、国を統一するどころか、なんとかハザール人によって統括されていた国内の微妙なバランスを崩すことになっていった。

●ハザール人の貴族同士の間では、ユダヤ教を受容する王国中心部のグループと、首都とは没交渉に近い地方在住のグループの対立が目立つようになった。そしてついに835年頃、内乱の火の手が上がり、支配者側が勝利すると、反乱者の一部は皆殺しにされ、一部は国外に逃れたのである。
この事件は、反乱を起こした有力貴族の部族名から「カバール革命」と呼ばれる。この有力貴族は家族とともにボルガのロストフの地に亡命した。このロストフはルス人の商人団が築いた根拠地のひとつであり、ここでルス商人団の長の娘とハザール人の反乱貴族の息子との婚姻が行われた。こうして「ルーシ・ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立したのである。
※「ルーシ・ハン国」は後にハザール王国の後継としてビザンチン帝国に公認されるようになる。

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●862年、ロシア史の中で決定的な出来事が起きた。ルス人リューリク大公の配下が、それまでハザール王国の支配下にあったドニエプル川沿いの重要都市キエフを無血併合したのである。(キエフという名前は、もともとはハザールの将軍クイの砦からついた名前である)。
やがてこのキエフはルス人の町として発展し、「ロシアの町の母」となり、この町の名をとった公国「キエフ・ロシア国(キエフ・ルーシ)」が、最初のロシア国家の揺籃となった。ルス人がキエフに住み着いてから、ビザンチン帝国に対するルス人の脅威はますます増加し、この後200年の間、ビザンチン帝国とルス人の関係は武装闘争と友好的条約の間を行ったり来たりした。
 
■「ハザール王国」の衰退

ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国は、浮き沈みはありながらも次第に親交を深め合うようになる。それにつれてハザール王国の重要性は減少していった。ハザール人の王国は、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の通商ルートを横切っており、増大する物資の流れに10%の税をかけるハザール人の存在は、ビザンチン帝国の国庫にとってもキエフ・ロシア国の戦士商人にとっても苛立ちの原因となっていった。

●9世紀末あたりから、ルス人の艦隊が、ハザールの海「カスピ海」沿岸を侵略するようになった。そして913年、800隻からなるルス人の大艦隊がやってくると、事態は武力衝突へと進展し、カスピ海沿岸で大量の殺戮が行われた。この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築いた。
965年、キエフ・ロシア国のスビャトスラフによって、ハザールの防衛の「サルケル砦」が陥落してしまった。このあと、ハザール王国の首都イティルも攻撃を受けた。

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●ところで、『原初年代記』によれば、986年にハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国のウラジーミル大公にユダヤ教改宗を進言したとある。しかしウラジーミル大公は、988年に、先進的な文明国であったビザンチン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教を取り入れ、この地にキリスト教文化を広めることになった。これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになってしまう。
また、同じ時期にウラジーミル大公はビザンチン帝国の王女アンナと結婚。これによって、ハザール王国とビザンチン帝国の「対ロシア同盟」は終焉し、それに代わって、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができたのである。

●なお、当時、この地域で帝国としての地位を認められていたのは、ビザンチン帝国、アラブ帝国アッバース朝)、それとハザール王国の3つであった。
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公に嫁いだのはビザンチン帝国の王女アンナであったが、アンナはその前にドイツのオットー2世に求婚された際、これをすげなく拒否している。理由は格が違うというものであった。そのアンナがウラジーミル大公に嫁いだということは、ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の格が違わなかったことを示している。それはキエフ・ロシア国がハザール王国の後継者であるからであった。
※ ウラジーミル大公が、ビザンチンなど西側の文献で、時々、ハン(汗)とかカガン(可汗)というトルコ系(ハザール)特有の呼び名で呼ばれているのは、これを反映している。

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ビザンチン帝国とキエフ・ロシア国の「対ハザール同盟」ができてから数年後の1016年、ビザンチン・ロシア連合軍はハザール王国に侵入し、ハザール王国は再び敗北を喫した。
ハザール王国東部諸都市は灰燼に帰し、壮大な果樹園やブドウ畑は焼き払われた。ハザール王国の西部方面(クリミア半島含む)では、比較的被害は少なかったが、都市は荒れて交易路も乱れた。
※ 首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで、領土こそ縮小したものの独立を保ち、なんとかユダヤ教の信仰を維持し続ける。

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1992年に発見されたハザール王国の首都イティルの遺跡
朝日新聞は1992年8月20日に以下のようなニュースを伝えている。

「6世紀から11世紀にかけてカスピ海黒海にまたがるハザールというトルコ系の
遊牧民帝国があった。9世紀ごろ支配階級がユダヤ教に改宗、ユダヤ人以外のユダヤ帝国
という世界史上まれな例としてロシアや欧米では研究されてきた。〈中略〉この7月、
報道写真家の広河隆一氏がロシアの考古学者と共同で1週間の発掘調査を実施し、
カスピ海の小島から首都イティルの可能性が高い防壁や古墳群を発見した」

 
●ちなみに、ハザール・ユダヤ人のコミュニティは、もとハザール王国の重要都市であったキエフの町の中にも近郊にも存在していて、ハザール王国の崩壊期に、ハザール人が多く流入して強化されたといわれている。事実、ロシアの年代記には「ゼムリャ・ジュドフカヤ(ユダヤ人の国)」から来る「ジェドヴィン・ボガトウイル(ユダヤの勇士)」たちに何度も言及している。