ハザール王国の歴史④「キプチャク汗国」の成立とハザール人の離散

 
■■第4章:「キプチャク汗国」の成立とハザール人の離散

■クマン人(ポロヴェツ人)の侵入

キエフ・ロシア国はハザール王国の衰退に乗じてこの地域の主権を握り、西のカルパチア山脈から、東のボルガ川、そして南の黒海から、北の白海にかけて勢力を誇るようになったわけだが、ロシア人とそのスラブ系臣民は、草原の遊牧民戦士たちが駆使する機動戦略、ゲリラ戦法に対処できなかった。
遊牧民の絶え間ない圧迫の結果、ロシア戦力の中核は徐々に南の草原地帯から北の森林地帯へ、ガリチア、ノブゴロド、モスクワの大公国へと移っていった。

ビザンチン帝国は、新たな同盟国であるキエフ・ロシア国が、ハザール王国の後継として東ヨーロッパの護衛と通商の中心になるだろうと計算していたが、実際はそうなるどころか、キエフの衰退は速かった。それはロシアの歴史の第1章の終わりで、その後1ダースもの独立した大公国が互いに果てしなく争いあう空白の時期が続いたのである。

●この力の空白地帯に新たに乗り込んできたのが遊牧民族のクマン人(ポロヴェツ人)である。彼らはハンガリーに至るまでの草原地帯を11世紀終わりから13世紀にかけて支配した。
それに続いて今度はモンゴル人が侵略してきた……。
 
■モンゴル軍の侵入と「キプチャク汗国」

●1223年、ロシアの地にモンゴル軍が出現した。この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。
そして1236年、チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンもヨーロッパ遠征に出発した。ボルガ河畔からロシアに侵入したバトゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。さらにその一隊は、ポーランドハンガリーまで攻め込んだ。

●こうしてバトゥ・ハンの遠征軍はヨーロッパ世界に脅威を与えたが、オゴタイ・ハンが没すると、バトゥ・ハンの遠征軍はボルガ川畔まで後退し、カスピ海に注ぐボルガ川下流サライを首都として「キプチャク汗国」を建てた(1243年)。
こうして、「キプチャク汗国」はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まったのである。

●ちなみに、この「キプチャク汗国」が首都にした都市サライは、またの名をイティルといった。すなわちハザール王国の首都だった都市である。
このことから、ハザール王国がいつ滅亡したのか具体的な記録は残されていないが、この時期1243年、ハザールの中心部はバトゥ・ハンの権力下に吸収され、ハザール王国は「完全に崩壊」したことがわかる。

●なお、ちょうどこの時期、バチカンの情報網は、離散したハザール人についての記録を残している。
1245年、ローマ教皇イノセント4世は、「キプチャク汗国」のバトゥ・ハンに使節団を送った。新しい世界情勢とモンゴル帝国の軍事力を探るのが主な目的であった。使節団はドイツのコローニュを出発し、ドニエプル川とドン川を通って、1年後にボルガ川下流にある「キプチャク汗国」の首都に無事到着した。
この使節団の長だった修道士カルピニは、帰国したあと、有名な『モンゴル人の歴史』を書いた。その歴史的、人類学的、軍事的資料の宝庫の中には、彼が訪れた地域に住む人々のリストもある。そのリストの中で北部コーカサスの人々を列記した中に、アラン人やチュルケス人と並んで「ユダヤ教を信じるハザール人」の名がある。
今のところこの記録が、民族としてのハザール人についての最後の「公式記録」とされている。

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●ところで、ハンガリー歴史学者アンタル・バルタ博士は、著書『8~9世紀のマジャール社会』でハザール人に数章をあてている。8~9世紀のほとんどの期間、マジャール人ハンガリー人の祖)はハザール人に支配されていたからである。しかし、ユダヤ教への改宗には一節をあてているのみで、しかも困惑もあらわである。
「我々の探求は思想の歴史に関する問題には立ち入れないが、ハザール王国の国家宗教の問題には読者の注意を喚起しなければならない。社会の支配階級の公式宗教となったのはユダヤ教であった。いうまでもなく人種的にユダヤ人でない民族がユダヤ教を国家宗教として受け入れることは、興味ある考察の対象となりうる。しかし、我々は次のような所見を述べるにとどめたい。
この公式のユダヤ教への改宗は、ビザンチン帝国によるキリスト教伝道活動や東からのイスラム教の影響およびこれら二大勢力の政治的圧力をはねつけて行われた。しかも、その宗教はいかなる政治勢力の支持もなく、むしろほとんどすべての勢力から迫害されてきたというのだから、ハザール人に関心を持つ歴史学者すべてにとって驚きである。これは偶然の選択ではなく、むしろ王国が推し進めた独立独歩政策のあらわれと見なすべきである。」
 
─ 完 ─