ハザール王国とユダヤ人②アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」

■■第2章:アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」

●一般に、ハザール系ユダヤ人問題といえば、アーサー・ケストラーが有名である。しかし、彼は最初の「発見者」ではない。アーサー・ケストラーよりも前に、既に多くの人がハザール系ユダヤ人問題をとりあげていた。(あまり知られていないようだが……)。主な人物を紹介しよう。

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「ハザール王国」は7世紀にハザール人によってカスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ないユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。
 

イスラエル建国以来、一貫して反シオニズムの立場に立つジャーナリスト、アルフレッド・リリアンソール。彼の父方の祖父はアシュケナジーユダヤ人で、祖母はスファラディユダヤ人であった。彼はアーサー・ケストラーの本よりも2、3年も早く『イスラエルについて』という本を書き、その中で東欧ユダヤ人のルーツ、すなわちハザール人について以下のように述べている。
「東ヨーロッパ及び西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な先祖は、8世紀に改宗したハザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執着を支える一番肝心な柱を損ねかねないため、全力を挙げて暗い秘密として隠され続けて来たのである。」

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ユダヤアメリカ人のアルフレッド・リリアンソール。反シオニズムの気鋭ジャーナリストであり、中東問題の世界的権威である(国連認定のニュースレポーターでもある)。
 
●古典的SF小説『タイムマシン』の著者であり、イギリスの社会主義者H・G・ウェルズ(1866~1946年)は『歴史の輪郭』の中で次のように述べている。
「ハザール人は今日ユダヤ人として偽装している」
ユダヤ人の大部分はユダヤ地方(パレスチナ)に決していなかったし、またユダヤ地方から来たのでは決してない」
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有名なイギリス人小説家
H・G・ウェルズ
 
ハーバード大学のローランド・B・ジャクソン教授は、1923年、次のように記している。
ユダヤ人を区別するのに最も重要な要素は……ハザール人の8世紀におけるユダヤ教への改宗であった。これらのハザール人にあって……私たちは東ヨーロッパのほとんどのユダヤ人の起源を、十中八、九までここに見出すのである。」

イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエルが建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
「……これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫——その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者——が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ……」

●このように、ハザール系ユダヤ人問題は、アーサー・ケストラー以前から存在しているのであり、決して、アーサー・ケストラーが最初の「発見者」ではないのだ。しかし、ハザール系ユダヤ人問題を多くの人に知らしめたという点において、彼は大きな功績を残したといえよう。

●ちなみに、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていたユダヤ人学者のN・M・ポロックは、1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。
イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。

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●ここで、もう1人、ナイム・ギラディというユダヤ人についても紹介しておきたい。
彼はかつてイスラエルで活躍していたジャーナリストである。彼は典型的なスファラディム(スファラディユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジーム)を見て大変とまどったという。
イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。
 


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(上)元イスラエルユダヤ人ジャーナリスト
ナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディムである。
(下)彼の著書『ベングリオンの犯罪』
 
●彼は、1992年秋、スファラディムを代表する一人として日本各地を講演して回った。彼は講演で次のように語った。
イスラエルでは本当のユダヤ人たちが、どれほど惨めな生活を強いられていることか……アシュケナジームを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、スファラディムすなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。
……まだイスラエルにいた当時、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。なぜならば、アシュケナジームとあなたがたパレスチナ人の間に、私たちスファラディムがいるからだ。そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである……』」
 

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イスラエルのアシュケナジー系の政治家が、スファラディユダヤ人に対して
「差別発言」をしたことを伝える記事(1997年8月3日『朝日新聞』)
 
●宗教・民族に関して数多くの著書を出している、明治大学の有名な越智道雄教授は、最近、ハザールとアシュケナジーム(アシュケナジーユダヤ人)について次のように述べている。
「アシュケナジームは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でボルガ下流のハザール王国首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教イスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。
2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジームだったとは、ふしぎな因縁である。〈中略〉現在、スファラディムが数十万、アシュケナジームが一千万強といわれている。」

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↑西インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)で生活する
「ベネ・イスラエル」と呼ばれるインド系ユダヤ人(1890年)
※「ベネ・イスラエル」とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉で、
ヘブライ語では「イスラエルの子」を意味する。この共同体はインドの
 約1500年前にまで遡り、その中心はムンバイとコーチンであった。
 
イスラエル共和国を去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)で素直な気持ちを述べている。
イスラエルにいたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。しかし彼らがユダヤ教徒だと聞いたとき、私のユダヤ民族の概念は吹っ飛んでしまった。
同じように黒人がいた。アルジェリア人がいた。イエメン人がいた。フランス人がいた。ポーランド人がいた。イギリス人がいた。まだ会ってはいないが中国人もいるそうである。どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。〈中略〉私の母はスラブの顔をしている。父はポーランドの顔としかいいようがない。私もそうなのだ。」
「私はイスラエルで一つの風刺漫画を見た。白人のユダヤ人がイスラエルに着いたら、そこは純粋なユダヤ人の国だと説明されていたのに、黒人もアラブ人もいたのでがっかりした、というものだ。この黒人もアラブ人もユダヤ教徒だったのだ。彼は自分の同胞に有色人種がいたので、こんなはずではないと思ったのである。」
 

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(上)ユダヤ人女性のルティ・ジョスコビッツ
(下)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房
※ この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
ドキュメント・ファイル大賞」を受賞