[I]カルデア神学における諸階層①

[I]カルデア神学における諸階層

(A)父 — 『カルデア神託』の存在階層で頂点を冠するものは、「父」(pathvr, Frr.3; 7;14; 25;81;87;107;115;<211> et al.[8])「父的知性」(patriko;V nou:V, Frr.39;49;108;109)、「神」(第一の知性」(nou:V prw:toV, Frr.7)、「父的始原」(patrikh; ajrch), Fr.13)、「神」(qeovV. Fr.19)、「父的深淵」(patriko;V buqovV, Fr.18)、「父的源泉」(phgh; patrikhv, Fr.37)などと呼ばれているものである。この父は他のものから隔絶している。

『それ自身、全体として(すっかり)外にある』(aujtovV pa:V e[xw uJpavrcei, Fr.5) 『父は自分自身を連れ去った』(oJ path;r h{rpassen ejautovn, Fr.3)

それゆえ、「端的に彼方のもの」(oJ a{pax ejpevkeina, Fr.26;35;169)、「第一の彼方の火」(pu:r ejpevkeina to; prw:ton, Fr.5)と性格づけられている。


(A1)(A2)(A3)父と力と知性

 父はまた、プロティノスの場合のように「一者」(unum, Fr.9;9a)、「善そのもの」(tajgaqo;n aujtov, Fr.11)とも呼ばれている。ただし、この一者は「父的な単子」(patrikh; monavV, Fr.11)という別名とともに、父、力(duvnamiV)、知 性(nou:V)の「三つ組」(triavV, Frr.27;29)へと展開する緊張を孕んだものとして捉えられている。

 「父と力と知性があるとするにせよ、これらに先立つものとして、この三つ組に先立つ一なる父が存在するであろう。『というのも、あらゆる世界に三つ組が輝き、その三つ組を単子が支配しているからだ』」(panti; ga;r ejn kovsmw/ lavmpei triavV, h|V mona;V a[rcei, Fr.27)

したがって、父は単子としての父でもあり、三つ組の一分肢としての父でもある。

 「プロクロスは端的に彼方のものに関して次のように述べている。
 『世界はあなたを三つ組の単子と(monavda.....triou:con)見て敬った』」(Fr.26)

 父、力、知性の三つ組内の関係については、次の断片が示唆的である。

 「いたるところで、力が中位を割り当てられている。知性的なものどもにおいても、力が父と知性を結びつけている。
 『力はかの知性とともにあるが、知性はかの父から出たものである。』」(hJ me;n ga;r duvnamiV su;n ejkeivnw/, nou:V d= ajp= ejkeivnou, Fr.4)

知性と力のうち、まず知性の方を考察することにしよう。この断片四では、知性が父から派生したものであることが暗示されているから、両者を区別すべきであることが当然導かれてくる。

 『父はすべてを完成させて、第二の知性に引き渡した。この第二の知性のことを人間の族はみな第一の知性と呼んでいるのだ』(Fr.7)

父は第一の知性であったから、父から派生した知性は第二の知性としなければならない。父である第一の知性が「端的に彼方のもの」と呼ばれていたのに対して、第二の知性は知性的な世界と感性的な世界の双方と関係をもつ(Fr.8)がゆえに、「二重性格をもった彼方のもの[9]」(oJ di;V ejprvkeina, Fr.125)と呼ばれている。第一の知性は創造 の業に関与せず、超越性を保持し続けているのに対し、第二の知性はイデアにもとづいて世界を形造るデーミウールゴスである。

 『第一の彼方の火は、(直接的な)[10]働きによってではなく、知性によって質料のうちに自らの力を封じ込めた。なぜなら、浄火界の工作者は知性から出た知性だからである。』(Fr.5;cf.Fr.58)

この引用の「第一の彼方の火」というのは、第一の知性を指し、「知性から出た知性」というのは、第二の知性 を指している。

 次に、父と知性と力の三つ組のうちで力について見てみよう。父から派生した知性と違って、力は父とともにあり、知性と父の中間にあって両者を媒介すると先の断片四で述べられていた。力(hJ duvnamiV)はギリシア語で女性名詞であり、男性原理である父と対比された女性原理であると言える。女性原理はグノーシス主義においてと同様、産出には不可欠の原理とみなされている[11]。この女性原理は世界霊魂と結びつき、さらには女神ヘカテー(Fr.52)、またはレアー(Fr.56)として登場してくる。その際、あらゆるものを育み、生命を与える豊饒の座として女神の子宮がイマージュとしてたびたび現れるのが印象的である。

 「すべての生命 — 神的な生命、知性的な生命、魂的な生命、世界内の生命 — がそこから産み出される、生命産出の源泉レア一について、神託は次のように語っている。
 『実にレアーは、浄福で知性的なものどもの源泉であり、流れである。というのも、レアーは力において第一のものなので、その語り得ない子宮のうちで、すべてのものの誕生を受けとって、それが急ぎ行くゆえ、万有へと注ぎ出すのである。』」(Fr.56;cf.Frr.32;37)

 また断片三七によれば、第一知性である父が直知することを通じて(nohvsiV, Frr.37;39)イデアを稲妻のようになげうつと、多種多様なイデアが女神の子宮のうちにで懐胎され、蜂の大群のように動き、四方八方に輝きを放つことになる。女神はデーミウールゴスが自然界を創造するために用いるイデアを自らの子宮のうちで養い、変容させるのであるが、その意味するところは、イデアを測ること(metrei:n, Frr.23;31)、すなわち、イデアを分割し、境界を与えて構造化することである[12]。

 以上の父、力、知性の三つ組がカルデア神学の高次の存在階層であるが、これらと最低次の質料の間を満たすさまざまな存在者がある。神々が超越的に描かれて人間の世界から隔離されればされるほど、両者を媒介する中間的存在者の必要が感ぜられるのである[13]