[II]神働術(qeouggiva)①

[II]神働術(qeouggiva)

 「神働術者」(qeourgovV)とは、ユリアノス父子の造語であり、『カルデア神託』の残存断片においては、た だ一度だけ断片153に現れている。

 『神働術者たちは、運命に服する大衆の下に落ち込むことはない』(Fr.153)

 神学者(qwolovgoV)が神的なことを語る人々(oiJ ta; qei:a levgonteV)であるのと対比して、神働術者は神的なことを行う人々(oiJ ta; qei:a ejrgazovmenoi)であるとも言われる[22]。たしかに、神々についてただ語るだけで、それがそのまま救いの道とはなりにくい神学に対して、救いの道を積極的に切り拓く手段として、批判的なメッセージをこめて「神働術」という語が造語されたことは想像に難くない。「神働術」(qeourgova)という語を分析すれば、二つの構成要素、神(qeovV)と働き(e[rgon)が容易に見出されるが、この二つの成分が互いにどう関係するかは、文字面だけでは直ちに明らかではない。神は働きに関して主語として振る舞うのか、あるいは目的語として振る舞うのであろうか。つまり、神を働かせるのか、神が働くのかという問いが浮上してくるのである。

 ここで、神を働かせるという方の選択肢をとるならば、神働術は魔術と区別がつかなくなりかねない。というのは、魔術を白魔術と黒魔術に分けた場合、神働術は妖術(gohteiava)である黒魔術ではないのはもちろんのこと、恋人の気を引いたり、雨を降らせたりするような白魔術とも異なるからである。魔術と神働術との相違は、その目的に関して魔術が卑俗な目的を目指すのに対して、神働術の方はあくまでも魂の救済を目指すところにあ る。また、魔術は神に働きを強いるが神働術は神の自由意志による恩寵的働きを強調する。したがって、神働術においてはたしかに術である以上、人間から神への働きかけが必要なことは自明であるが、神々を強制的に引きずり降ろす降神術としてではなく、神の能動的関与により魂の方が神へと高められることを目指す、儀式を伴った手法であると理解するのが正当なのである[23]。

 それでは、神働術の具体的な儀式はどのような手順に沿って行われるのであろうか。この方法は大別して二通りに分けることができる[24]。一つ目は、生命なき彫像に神的なものを臨在させて生気づける、エジプト起源の「聖化の術」(telestikhv)と呼ばれるものであった。10世紀末の古辞書『スーダ』によれば、神働術者ユリアノスはTelestikavという書物を執筆したと伝えられている[25]ので、この書物が後世の新プラトン派において、聖化の術の手引きになったと推定される。では、どのようにして神像を生けるものにするのかと言えば、神像の空洞の中に特定の宝石や香草や小動物を入れて、これらと神々が共感的感応を起こすようにさせたらしい。

 「どのような仕方で、どんな材料から彫像をつくるべきか、(神々)自身さえ助言を与えているということは、ヘカテ一に関する以下の言明から明らかである。
 『さあ、彫像を完成させよ、私があなたにこれから教えるとおりに(その像を)浄めたうえで。
 野生のヘンルーダで型をつくり、家のまわりに棲むとかげのような小さな動物でさらに飾りたてなさい。小動物とともに、没薬、ゴムの樹脂、乳香の混合物をこすりつけたうえで。
 そして、戸外で満ちつつある月の下、あなた自身が次の祈りを捧げながら、(像を)完成させなさい』」

 或る特定の神格は、鉱物界、植物界、動物界の或る特定のものと感応するので、その共感関係を利用して、たとえば女神ヘカテーを呼び出すときには、神像の空洞に女神のシンボルとなる質料的似像を作り上げて、祈りを捧げ、イウンクスを用いたりして女神の顕現を招来するのである。捧げられる祈りの文言は、『ギリシア魔術文書』に伝えられているような、意味不明である一方、一定のリズムのパターンに則った音の吟唱であったり、呼び出す対象である神格の名を含んだものであったと推定される。だが、その昔の連鎖や聖なる神名は、翻訳不可能なものであって、強いてギリシア語に翻訳してしまうと、祈りの効力が喪失すると考えられていた。

 「『異国起源の名を決して変えてはならない。』(ojnomata bavrbara mehvpot= ajllavxhV)  これすなわち、各々の民族のもとに神から与えられた名は、秘儀に際し、語りえぬ力をもっているからという意味で ある」(Fr.150)

このようにして神的なものが呼び出されると、神働術者はその神格に質問を投げかけ、将来の出来事の予言や、魂を神に結びつけるためのさらなる手順を答えとしてえることができたらしい。

 次に、神働術の第二の方法は、神像ではなく、人間を神の受容器にするものである。受容器としての人間は、いわゆる霊媒であり、神働術者と術をかけられる霊媒とが別の人間である場合と、神働術者が同時に霊媒を兼ねる場合とがあった。それはともかく、霊媒が脱魂したり、神的なものに憑依されるためには、しかるべき衣を身にまとったり、海水で身を浄める等の準備を経て、先の聖化の術と類似した祈りを捧げる必要があったであろう。

 「この秘儀を主宰する神働術者でさえ、浄めと潅水から始めるのである。
 『火の業を司る神官自身が、最も重要なこととして、重く轟く海の凝固した波(塩)[26]を身に振りかけるようにせよ』」(Fr.133)

 そして、実際に神的なものが霊媒に憑依すると、空中浮揚、声音の変化、火に対する無感覚など刺激に対する感受性の減退、顔や身体のさまざまな自動運動や、逆にまったくの不動状態などの現象が霊媒に生じる[27]。それに加えて、たとえばヘカテーは多様なダイモーン、英雄などを伴って形なき火として輝き、自らの啓示の声に耳を傾けるよう命ずるというようなことが起こる(Fr.147;146;148)[28]。