『カルデア神託』と神働術

 近年、本邦でも古代ギリシア哲学研究は、プラトンアリストテレスに集中していた時期を後にし、その研究成果を踏まえて古代末期の新プラトン主義にも関心を向けるようになってきた。しかし、プロクロス研究に資する貴重な一書を別とすれば[1]、古代ギリシアの新プラトン主義はプロティノスに代表されるという理解が一般の暗黙の了解であり、プロティノス以降の新プラトン主義の発展史は、いまだ古代哲学の専門家の研究の射程にさえ入っていないのが現状であろう。

 古代末期の新プラトン主義の始まりを、紀元三世紀半ばにプロティノスがローマで教え始めたとき、ないしは執筆活動を開始したときとするならば、その終焉は529年にユスティニアヌス帝の勅令によってアテナイアカデメイアが閉鎖されたときとおくことは妥当であろう。このおよそ三百年の間、新プラトン主義の歴史はプロティノス創始者とし、後は亜流が連なる一つの教団の歴史では決してない。研究の拠点もローマ、アテナイアレクサンドリアベルガモン、コンスタンティノポリス、アパメアなど東地中海沿岸部に広くまたがり、相互交流があるため截然とその中心都市を基準に学派を区分すること(たとえば、シリア派、アレクサンドリア派、ローマ派、アテナイ派など)は、もはや流行遅れになった感があるが、それでも新プラトン主義が多様な思想の潮流を 内蔵したものであることは、今後の研究がますます明らかにするものと予想される。

 新プラトン主義内部に引かれうるさまざまな分割線のうちで、すでに識者の意見の一致をえており、いまわれわれの関心を引くものは、プロティノスポルピュリオス等の思想と、プロクロス等を含むイアンブリコス以降の思想を分かつ線である[2]。両陣営を分かつ一つの指標は、神働術(qeoirgiva)を重視するか否かという点であり、ひいては神働術を提唱した『カルデア神託』(Oracula Charldaica, Lovgia Caldai&kav)を聖なる書物として認めるか否かという点にかかっている。これが、イアンブリコス以降の新プラトン主義研究の前提として、『カルデア神託』研究が先行しなければならない理由である。

 『カルデア神託』とは、紀元後二世紀後半、マルクス・アウレリウス・アントニヌス帝の治下[3]、カルデア人ユリアノスと、その息子神働術者ユリアノス、あるいは後者一人によって記されたヘクサメトロンの韻文の集成のことである。その成立年代から過ぐる1世紀の、紀元3世紀に生きたプロティノスは当然『カルデア神託』を読んでいた可能性が高いが、思想上ではむしろ相容れないものを察知していたと思われる[4]。プロティノスの高弟ポルピュリオスは、魂の非理性的部分の浄化に関してのみ神働術の効果を認める[5]というかたちで、師よりも『カルデア神託』に若干歩み寄っている。しかし、この善が「末期新プラトン主義者たちの聖書」(the Bible of the last meo-Platonists)[6]と呼ばれるようになるのは、ポルピュリオスに敵対したイアンブリコス以降のことなのである。イアンブリコスは『カルデア神託』に関して少なくとも二八巻の註釈を書いたと伝えられている[7]。

 さて、この『カルデア神託』は、トランス状態(変成意識状態)になったユリアノスが神から与えられた啓示 の記録であるという性格のゆえに、相矛盾する思想を内包していることこそ神託としての権威を高める効果があ るともいえるし、また現今まで伝承された限られた量の断片からその思想を再構成しなければならないという制 約もあって、不整合な点を多々示すが、ともかくも、最初にその体系の輪郭を一解釈として素描してみることに したい。それは、哲学史的には紀元前1世紀のアスカロンのアンティオコスから、紀元後3世紀のプロティノスの登場以前の中期プラトン主義と類似の内容を呈し、グノーシス主義との関連性も色濃く窺わせるものである。そしてその後で、神働術の原型を『カルデア神託』に探り、イアンブリコスの『エジプト人の秘儀について』によって、いささかなりともそれに肉付けをしてみようと思う。