[II]神働術(qeouggiva)②

 さて、ここに紹介したような神働術に関して、その詳細と理論的正当化の試みにわれわれが出会うのは、イアンブリコスの『エジプト人の秘儀について』(De mysteriis)においてである。この書名は、1489年頃ラテン語へのパラフレーズを試みたフィチーノが同書に与えたタイトル『エジプト人カルデア人アッシリア人の秘儀について』に由来するものであるが[29]、その正確な書名は、『(エジプトの神官)アネボーに宛てたポルピュリ オスの手紙に対する(アネボーの師である大神宮)アバモンの答えと、その手紙で提起された諸問題の解法』という長いものである。アネボーがイアンブリコスの弟子として実在しようが、架空の人物であろうが、ポルピュリオスはイアンブリコスに対して『アネボーへの手紙』という公開質問状を突きつけたことは事実である。ポルピュリオスは、次第に神働術への傾斜を強めるイアンブリコスに対して、自分と自分の師であるプロティノスの哲学から逸れて非合理主義を喧伝している疑念を抱いたと思われる[30]。一方、アネボーを透かして己れに向けられた批判を正面から受けとめたイアンブリコスは、アバモンという擬名で批判の論点を逐一論破する。擬名を用いた理由は、師弟関係にあったとされるポルピュリオスに対する遠慮というよりは、ギリシア人より太古の知恵を有するエジプト人に自己の思想を仮託して代弁させたかったからだと考えられる。また、「アバモン」という名は「エジプトの神アモーンの父」という意味で、「神働術者」を指していると推測されている[31]。ここでわれわれが確認できることは、二人の新プラトン主義の代表的思想家の衝突の記録である本書をもって、非プロティノス的新プラトン主義が明確な形をとったということである[32]。本書に「非理性(合理)主義の宣言書」(manifesto of irrationalism)[33]というレッテルが貼られたことは、命名者の意図とは独立に、ポルピュリオスと同じ否定的な立場からのみ本書が受け取られ、イアンブリコス研究の歩みを鈍らせることにもなった。それゆえ、われわれは近年の研究の趨勢に沿って、なるべく肯定的にイアンブリコスの思想を捉えてゆくべきだと思う。

 さて、エジプト人の役を演じるイアンブリコスは、ポルピュリオスギリシア人を代表させて批判する。イアンブリコスによれば、ギリシア人は新奇さを好み、移り気から絶えず古きものを革新してしまうのに対して、エジプト人アッシリア人カルデア人は太古の神与の言葉を無傷で保存している。それゆえ、これら聖なる民族の伝える神名は人間の理性を越えた仕方で神々と接点をもっている。ポルピュリオスは、言葉が他国語に翻訳されても、聴き手はその概念、意味に注意を払うはずだという理由から、わざわざ他国語の神名を用いる神々への 呼びかけの効用を疑問視した。それに対してイアンブリコスは、用いられる言葉に関わりなく、人がその意味だけに注目するのは正しくないのであり、言葉は他言語に移されると、まったく同じ力をもつとは限らないと主張した。とりわけ、聖なる民族が保存してきた神名は、翻訳されることによって力を失うと考えられた。というのも、われわれにとって無意味の神名でも、われわれには知られざる仕方で神々にとっては有意味でありうるからである。こうして、感覚対象から抽象された概念は、名付けられた対象の全存在を開示することがないので二次的なものとされ、神々の個別的神顕である異国起源の神名が祈りの際に優先されたのである。もちろん、この神名は神聖なものであるから、何も付け加えてはならないし、何も削ってもならないものなのである[34]。

 次に、ポルピュリオスにとっての疑問点は、神働術の祭儀において上位のものがあたかも下位のもののごとくに呼び出しによって顕現を強制されるのは、不合理ではないかという点である。それに対してイアンブリコスは、神々が非受動的であることに関しては異存がないので、神働術とは神々を強制的に降下させることであるという誤った理解の方を訂正する。神働術においては、むしろ神々の方が自らの善意志によって自発的に魂に光を照らし、魂を上方に引き上げ、神々自身と合一させるのである。その際、魂は肉体の中にありながら、肉体から分離した状態になるので、人間の階層を超えた階層に移ってしまう[35]。この神的狂気といわれる状態では、神々が人間の活動を道具として用い、照明によって人間の意識を根絶するのであり、人間は「狂える口もて」理解不可能な言葉を発するようになる[36]。また、そのとき人は火によっても焼かれないし、金串で刺し貫かれても痛くないし、斧で肩を殴られようが、ナイフで腕を切り裂かれようが気づかない。というのは、人間の生を神々の生と交換してしまったので、かれらの活動はもはや人間的なものではないからである[37]。

 このようにイアンブリコスは、神働術において徹底的に神々に主導権を預けるのであるが、もちろん人間の側で何もしなくてよいと主張するのではない。神々を分有するためには、人間はたとえば沐浴し、隠棲し、断食を 行ったうえで、犠牲と祈りを捧げるなどして、自己を聖なる受容器に仕立て上げなければならない[38]。聖なる器になった人間は神々を引き下ろすのではなく、潜在的に万物に臨在している神々に適合した状態になり、直ちに顕在的に神々に満たされることになる[39]。人間は潜在的に魂の内に天使や神々などあらゆる種類の形態を含んでいるという表現も使われているところを見ると[40]、神々が主導的に人間を引き上げるという事態と並んで、人間の方にも神々を自己の魂の内から外に導くための実践が要請されているように見える。しかし、この顕在化のための実践を人間の神々に対する能動的働きかけとか、いわんや神々の顕現への強制と捉えることをイアンブリコスが否定するのは、彼が人間の無力を強調し、自力救済の不可能性を訴えたかったからに他ならない。

 「人間の種族は弱く、取るに足らない、また近視眼的であり、無(oujdevneia)を生まれつきもっている。人間の内にある迷い、混乱、絶え間ない転変の唯一の治療法は、できる限り神的な光に幾ばくなりとも与ることである[41]」

 もしわれわれ自身の力で神々を分有することができるならば、神々の崇拝も必要ないし、宗教(的儀式)も必要ないであろうとイアンブリコスは考える[42]。「似たものは似たものによって(捉えられる)」という古来からの定式に徹底的に忠実であろうとする彼には、神々は人間的なものによっては動かされず、神々は神々自身によって動かされるとする道以外残されていない。そこで、われわれの内にしるし(sunqhvmata)として先在している神々が、しかるべき神名と祈りによって喚起されるということは、われわれの思考とは無関係に神々が神々自身と結びつき合一している活動へと、魂が他律的に参与せしめられるという意味に理解されなければならないだろう。人間の魂の内に神々は先在すると言われても、これはプロティノス的意味においてではない。プロティノスにおいては、魂は自らのまなざしを自力で上方に向け、ヌースや一者と合一することが可能であった。その意味で「内」とはまさに自己の力の「内」であった。それに対して、イアンブリコスにとっての「内」とは自己の力 の「外」で展開されている神の業へと、神働術を通じて救われる可能性を示す以上のものではない。


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[註]

(1) 岡崎文明『プロクロスとトマス・アクィナスにおける善と存在者 西洋哲学史研究序説』晃洋書房、1993年。
(2) K・Praechter,Richtungen und Schulen im Neuplatonismus, Kleine Schriften, Hildesheim,1973, S. 165 「「イアンブリコスとともに転機が始まった」;Paulys Realenzyklopaedie der klassischen Altertumswissenschaft X, S. 650「イアンブリコスは、新プラトン主義の発展において境界石の意味をもつ」;R. T. Wallis, Neoplatonism, London, 1995 (1972), p.100「後期新プラトン主義の方向を定めたのはまさにイアンブリコスであるということに疑いは全くない」;cf. E. R. Dodds, The Elements of Theology, Oxford, 1963, Introduction, pp. xvii-xxiii;J. Dillon, Iamblichus of Chalcis, Aufstieg und Niedergang der roemischen Welt, Teil II, Band 36, 2. Teilband, Berlin, 1987, p.880「イアンブリコスは多くの仕方でポルピュリオスより複雑な神学と形而上学を考え出し、あらゆる重要な点で後のアテナイ派の哲学の基礎を据えた」。
(3) Suidas Lexicon, paris II, ed. A. Adler, Teubner, Stuttgart, 1967, p.642.
(4) J. Dillon, Plotinus and the Chaldaean Oracles, Platonism in Late Antiquity, ed. by S. Gersh and C. Kannengiesser, Norte Dame, 1992, pp.131-140は、プロティノスの用いる九種類あまりの用語は『カルデア神託』の影響下にあると推測している。
(5) H. Lewy, Chaldaean Oracles and Theurgy, Mysticism Magic and Platonism in the Later Roman Empire, Nouvelle édition par M. Tardieu, Etudes Augustiniennes, Paris, 1978, p.452.
(6) F. Cumont, The Oriental Religions in Roman Paganism, Chicago, 1911, p.279, n.66;cf. W. Theiler, Die ChaldĠischen Orakel und die Hymnen des Synesios (1942), Forschungen zum Neuplatonismus, Berlin, 1966, S.252;P. Merlan, Religion and Philosophy from Plato's Phaedo to the Chaldaean Oracles, Journal of History of Philosophy I, 1963, p.175;H. -D. Saffrey, Les Néoplatoniciens et les Oracles Chaldaïques, Revue des Etudea Augustiniennes 27, 1981, p.209.
(7) J. Dillon, Iamblichi Chalcidensis in Platonis Commentariorum Fragmenta, Leiden, 1973, p.15;E. des Places, La religion de Jamblique, De Jamblique à Proclus, Genève, 1975, p.71.
(8) 『カルデア神託』からの引用は、R. Majercik, The Chaldean Oracles, text, translation, and commentary, Bill, Leiden, 1989を底本とし、E. des Places, oracles Chaldaïques, text établi et traduit, Les belles lettes, Paris, 1989 (1971)も適宜参照した。226の断片のうち、1から186までは真性と認められうるものが、187から210までは『カルデア神託』特有の語桑が、211から226までは疑わしき断片が所収されている。疑わしき断片を私が引用する際には、番号に〈 〉を付した。神託そのものの翻訳部分は『 』で囲み、神託の前後の文脈は「 」で括った。
(9) H. Lewy, op.cit..,pp.318-320. (10) Des Places, op.cit., p.66 の訳と A. J. Festugière, La révélation d'Hermès Trismégiste III, IV, Paris, 1990, p.55 を参照して、括弧内の語を補った。

(13) ibid.,p.71.
(14) Majercik,op. cit., p.9.
(15) Johnston, op. cit. pp.93-10l.
(16) Majercik, op. cit., pp.16-17.
(17) F. W. Cremer, Die Chadäischen Orakel und Jamblich de Mysteriis, Mannheim, 1969, S.74.
(18) Lewy, op. cit. p.417; Majercik, op. cit., pp.11-l2.
(19) Cremer, op. cit., SS.63-64; Lewy, op. cit., pp.223-225.
(20) Majercik, op. cit. p.14; Lewy, op. cit., p.260.
(21) Johnston, op. cit., p.124; Majercik, op. cit., p.14.
(22) Lewy,op. cit. p.461.
(23) Majercik, op. cit., pp.22-24.
(24) ibid., pp.26-29; E. R. Dodds, The Greeks and the Irrational, Berkeley,Los Angeles, London, 1973(8) (1951).
(25) op. cit. p.642, n.434.
(26) Johnston, op. cit., p.81, n.14.
(27) Majercik, op. cit., p.28.
(28) Johnston, op. cit., pp.111-133; id., Riders in the Sky: Cavalier Gods and Theurgic Salvation in the Second Century A.D., Classical philology 87, l992 にしたがって、断片の順序は、147→148と理解する。
(29) H. D. Saffrey, Les libres IV aà VII du De Mysteriis de Jamblique relus avec la Lettre de Porphyre à Anébon, The Divine Jamblichus, ed.H. J. Blumenthal and E. G. Clark, Bristol, l993, pp.l44-5.
(30) H. D. Saffrey, Pourquoi Porphyre a-t-il édité Plotin?, Porphyre, La vie de Plotin II, Paris, l992, pp.50-56 は、ポルピュリオスが師プロティノスに著書の公刊を委ねられていたにもかかわらず、270年の死からなぜ30年経ってようやく約束の実行に踏み切ったか、その理由を推測している。その説によれば、ポルピュリオスプロティノスを自己の陣営の領袖に祭りあげ、『エネアデス』をイアンブリコスに対して戦うための武器に仕立て上げたのだという。
(31) H. D. Saffrey, Abamon,Pseudonyme de Jamblique, Recherches sur le Néoplatonisme après Plotin, Paris, 1990, pp.234-9; G. Shaw, Theurgy and the Soul, The Neoplatonism of Jamblichus, Pennsylvania, 1995, p.22, n. I.
(32) 古代末期の新プラトン派の哲学者自身が自らの属する思想潮流に二つの異なる傾向を認める、よく知られた証言として次のようなものがある。「ポルピュリオスプロティノスや他の多くの哲学者たちは哲学を優先したが、他方イアンブリコス、シュリアノス、プロクロスや秘儀に通じた人々はすべて秘術(神働術)を優先した」。 The Greek Commentaries on Plato's Phaedo, vol.II Damascius, ed. L. G. Westerink, Amsterdam, Oxford, New York, p.105, l72. I-3 (l23. 3-5 Norvin).
(33) E.R.Dodds, op. cit., p.287.
(34) Iamblichus, Jamblique: Les Mystères d'Egypte, texte établi et traduit par E. des Places, Paris, 1966, VII 4-5.
(35) Iamblichus, op. cit.,I 12.
(36) Iamblichus, op. cit.,III 8.
(37) Iamblichus, op. cit.,Ill 4.
(38) Iamblichus, op. cit., III 9.
(39) Iamblichus, op. cit., I 8-9.
(40) Iamblichus, op. cit., II 2.
(41) Iamblichus, op. cit., III 18 (144.12-17).
(42) 1amblichus, op. cit., III 20.