ガブリエルがダニエルに告げた「七十週の預言」

ガブリエルがダニエルに告げた「七十週の預言」


【聖書箇所】 9章1節~27節

ベレーシート

ダニエル書9章23節は、御使いガブリエルが神から遣わされてダニエルのところに来て語ったことばです。9章1節で、ダニエルはダリユス王の治世の元年に、預言者エレミヤのことばによって70年の捕囚が終わる事を知りました。これはおそらくエレミヤがバビロンの捕囚となった人々に宛てた手紙だと思われます。エレミヤ29章。偽預言者は2年ほどで捕囚から解放されると安易に人々に語っていましたが、エレミヤはむしろ「わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから」という主のメッセージを記しました。捕囚の70年(実際は50数年間)は、神が意図をもって定めたものであり、神の民が心を尽くして神を捜し求めさせるためでした。それが彼らにとって将来と希望を与えるためのものであったからです。ダニエルはその手紙(文書)によって、再び、イスラエルへの帰還が近い事を知り、主に祈ったのです。そのことが9章3~19節に記されています。ダニエルは神の民が罪を悔い改め、あわれみを示して下さるように、神に祈りました。

1. 御使いガブリエルが伝えた「七十週の預言」

ダニエルがそのような祈りをささげていたときに、御使いガブリエルが神から遣わされてダニエルに近づいて来て、次のように告げたのです。

22 ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。
23 あなたは神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を語れ。

ガブリエルの来訪の目的は、ダニエルに「悟りを授けるため」(新改訳)でした。新共同訳では「目覚めさせるために」と訳しています。ダニエルを目覚めさせる神からの「一つのみことば」とは、神の奥義、すなわち「隠された神の秘密」です。それはダニエルが祈り始めたときにすでに神から発せられたものでした。それをダニエルに悟らせるために届けられたのでした。その内容はダニエルが祈っている内容よりももっと遠大な内容、つまり、神の最終的な御国が打ち建てられるという有名な「七十週預言」と言われるものです。このことを悟るようにとダニエルは求められたのです。

「神に愛されている人」と「隠された神の秘密を知らされること」は密接な関係があるようです。ここで「愛されている」と訳された形容詞は「ハームード」(חָמוּד)で旧約では9回使われている語彙ですが、そのうちの6回はダニエル書で使われていますから、いわばダニエル書の特愛用語です。その意味は「最良の、貴重な、尊い、高価な、ごちそう、財宝、宝物、愛されている人」という意味です。神に愛されていた者に神はご自身の秘密を明かされるのです。

2. 「七十週」が定められているのは、神の民と聖都エルサレムに対して

22節と23節に3度「ビーン」(בִּין)という動詞が出てきます。これは神の奥義を理解し、その秘密を悟ることを意味します。その秘密の内容は、24節にあるように「あなたの民とあなたの聖なる都については、七十週が定められている」というものです。「あなたの民」とはイスラエルの民(ユダヤ人)のこと。「聖なる都」とはエルサレム、あるいはエルサレム神殿のことです。

(1) 「七十週の預言」にある六つの計画

24節には「七十週の預言」にある六つの計画(あるいは目的)が記されています。つまり、患難期の目的が記されているのです。



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No.1~3まではメシアの初臨によって神の側では実現していますが、神の民イスラエルはまだそれを民族的に受け取っていません(ヘブル9~10章)。No.4~6はやがて再臨されるメシアによって実現するものです(ヘブル9:28)。「永遠の義」は完全なメシア王国でしか成り立ちません。「幻と預言とを確証する」とは聖書のすべての幻と預言が成就するということです。最後の「至聖所に油を注ぐ」とは、メシア王国の時代に建てられる第四神殿において神のシャハイナ・グローリーが現われることを意味しています。ソロモン時代の第一神殿ではその献堂式においてシャハイナ・グローリーが現われました。しかし捕囚からの帰還後に建てられた第二神殿、および反キリストが建てると言われる第三神殿においては、それは現われていません。再びそれが現わされるのは「千年王国」時代の第四神殿が建てられた時と考えられます。

(2) 「七十週預言」の三つの部分(期間)



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※1 「七十週の起算点」について

エルサレムの神殿再建命令、すなわち、70週の起点となる年は以下のようにさまざまな異論があります。
(1)B.C.457・・ペルシャの王アルタシャスタ王の第七年目と理解する説(ダニエル9:25/エズラ記7:11~26)。この説に従えば、7週と62週の後、すなわち483年後であるA.D.27年にメシアは公の働きを初め、その3年後に十字架に磔にされることによって、「油注がれた者は断たれます」(ダニエル9:25~26)という預言が成就します。
(2)B.C.445・・神殿と城壁、エルサレムの再建をアルタシャスタ王が命じた時と理解する説(ネヘミヤ2:1~8/エズラ4:7~23)
(3)B.C.539・・クロス王による勅令の時と理解する説(Ⅱ歴代誌36:22~23/エズラ1:1~4、6:3~5)。この説の根拠とするところは、エレミヤ書の70年の捕囚預言(エレミヤ25:11, 12/29:10)と、イザヤ書の「わたしはクロスに向かっては、『わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる。』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』と言う。」 (イザヤ44:28) の預言の成就という観点からです。
(4)B.C.519/518・・ダリヨス王による勅令(エズラ5:3~17、6:1~12)
●4つの説の中で最も妥当な解釈 なのは、(3)のクロスの勅令からです。ただ年代B.C.539がどうも怪しいのです。聖書で、B.C.・・・というのは、聖書的根拠はないと思います。おそらく世界史の資料から類推していると思います。クロス王こそ、エルサレムを回復し再建せよとの「命令」を与えるはずの人であったことは確かです。この時が七十週の起点となる年です。そして「油注がれた者」が出現するまでが、聖書によれば483年(7×7+7×62=49+434 =483)です。イェシュアが「油注がれた」時とは、公生涯に入られる洗礼の時です。クロス王の勅令の年代が聖書の中に明確に記されていないことから、混乱を余儀なくされているのです。

※2
●A.D.70年にエルサレムの神殿はローマ軍によって完全に破壊され、ユダヤ人は世界に離散するようになりました。それ以来、歴史は止まったままの状態です。1948年のイスラエル建国以来、ユダヤ人たちはエルサレムに帰還しつつありますが、エルサレムの神殿はまだ再建されていません。歴史が再び動き出すのは、ユダヤ人の帰還と神殿の再建というこの二つがそろった時です。つまり、最後の1週(7年間)以降と言えます。



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3. ダニエル書9章25節~27節までの注解

【新改訳改訂第3版】ダニエル書9章25~27節
25 それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
26 その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない。やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する。その終わりには洪水が起こり、その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている。
27 彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現れる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。

「七十週」という意味について、聖書の中では1日を1年と見なす解釈があります。民数記14章34節、およびエゼキエル書4章6節を参照。

(1) 25節
25節にある「七週」は、7日×7週=49日となり、49年間を意味します。また「六十二週」は、7日×62週=434日となり、434年を意味します。「七週」と「六十二週」を合わせると「六十九週」となり、49+434=483(年)となります。

(2) 26節
26節の「その六十二週の後、油そそがれた者は断たれ、彼には何も残らない」とは、イエスが油注がれて三年半にわたる宣教活動を経て十字架の死にかかられることを預言しています。「彼には何も残らない」とは、イエスは死から復活して天に昇られたために、この地上では目に見える姿として何もないという意味です。

続いて、「やがて来たるべき君主の民が町と聖所を破壊する」の「君主」とは、偽キリスト(反キリスト)のことです。そして「その終わりまで戦いが続いて、荒廃が定められている」とは、異邦人の時が終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされることを意味します。異邦人の時が終わる時までとは、反キリストがキリストの再臨によって滅ぼされる時までです。それまで歴史の時計は止まっています。なぜなら、この時計は神の民ユダヤ人と聖なる都エルサレムがいっしょにある時にのみ動く時計だからです。「七十週の預言」は、神の民と聖なる神の都エルサレムが同時に存在しているときに関するものなのです。

(3) 27節
27節「彼は一週の間」の「彼」とは、反キリストのことであり、続く「一週の間」とは七十週預言の最後の一週(7年間)のことです。つまり、反キリストの支配が7年間(患難時代)に及ぶことを意味しています。イスラエルの中の多くの者は、一致して、反キリストと堅い平和条約を結ぶのです。しかし7年の前半の「半週の間」(つまり3年半)までは平和的なメシアの様相を呈しています。おそらくすべての宗教的混淆による平和がもたらされると考えられます。ところが後の「半週の間」(3年半)は、反キリストがその本性を顕わにします。「荒らす忌むべき者が翼に現われる」とは、反キリストが自らを神と称して「翼」、すなわち「神殿」の座に着き、人々に礼拝を強要するようになることを意味しています。その時こそまさにユダヤ人にとって未曽有の大患難の時(ヤコブの苦難)を迎えるのです。

ちなみに、「患難期前携挙説」では異邦人クリスチャンは天に引き上げられるために患難には遭わないと考えますが、「患難期後携挙説」では異邦人クリスチャンも患難に遭うと考えます。

以下の聖書箇所も参照のこと。➡Ⅱテサロニケ2章3〜10節、黙示録17章1〜5節。

しかし「ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかか」ります。それは再臨されるメシア(キリスト)によって反キリストは完全に滅ぼされるということを意味しています。

おわりに

●終わりの日の預言がダニエルに示され、このことを悟るように、理解するようにと告げられたのです。現代に生きる「神に愛されている」私たちも、ダニエルと同様にこのことを悟る必要があります。なぜなら、神のご計画のマスタープランを知ることによって自分の立ち位置が見えてくるからです。ゴールが見えることで、目に見えることに一喜一憂することなく、将来と希望をもって生きることができるようになると信じます。終末預言は決してやさしくはありません。複雑です。それゆえ、繰り返し、繰り返し、根気強く学ぶ必要があるのです。

●神のご計画のマスタープランにおける異邦人クリスチャンの立ち位置については、以下の文書が参考になります。



2013.8.24

さくらさくらの歌詞について

【さくら】
明治21年10月、文部省が編集した、東京音楽学校から発行された『箏曲集』に出た曲である。曲は近世の筝曲で、平野健次氏の考証によると、以前は「さいた桜」という題の、

咲いたさくら
花見て戻る
吉野はさくら
竜田はもみぢ
唐崎の松
ときわときわ
深緑

という欲張った歌詞だったのを、音楽取調掛というところで、この歌詞に改めたものという。作詞者は、『筝曲集』の編集者の一人とすれば、井沢修二・里見義・加藤厳夫のうちの誰かだったろうと思われる。

これ以後、明治・大正時代に作られた唱歌が原則として洋楽音階であったが、これは邦楽音階でできている点、異彩がある。

美しい日本の姿を伝える曲で、藤原義江氏や砂原美智子さんなどが愛唱されるのはもっともである。こういう曲がもっともっと作られれば、邦楽音階が、これ以後の子どもたちにも親しまれたはずであって、そうならなかったのが残念である。

(レファレンス共同データベース)

ハザール王国とユダヤ人④「ハザール系ユダヤ人問題」に関する注意点

■■第5章:「ハザール系ユダヤ人問題」に関する注意点

●長い間、謎とされてきた「ハザール王国」──。
しかし、学術的な分野での研究は着実に進んでおり、様々な実態が明らかにされ続けている。今後、ますます「ハザール王国」を研究する学者や研究機関は増え、「ハザール王国」の実態はさらに解明されていくだろう。一般人の間でも「ハザール王国」の知名度は急速に高まっていくだろう。
こうした傾向は歓迎すべきことだが、ある問題に関して懸念していることがある。
それについて、簡単にまとめてみたい。

●祖国を失ったハザール人は、“ユダヤ人”として生きることになった。もちろん、中にはオリジナル・ユダヤ人と混血した人もいるだろう。ハザール王国時代、地中海やオリエント出自のユダヤ人(オリジナル・ユダヤ人)が流入していたことは否定できない。しかし、それはごくごく少数の集団であった。ハザール王ヨセフ自身が明らかにしたように、彼らは自分たちがセム系ではなく、非セム系(ヤペテ系)の「ゴメルの息子」にルーツを持っていることを自覚していた。
現在、世界中に散らばっている“ユダヤ人”と呼ばれている人間の90%以上がアシュケナジームだが、彼らの大部分は、『旧約聖書』に登場する本来のユダヤ人とは全く関係のない異民族といえる。

●しかし、個人的に、彼らを単純に「ニセユダヤ人」と表現することには抵抗がある。
なぜなら、彼らは長期にわたって“ユダヤ人”として生き、オリジナル・ユダヤ人と同じ「キリスト殺し」の汚名を背負い、悲惨な迫害を受け続けて来たわけであり、同情に値するからだ。その思いは、ユダヤ問題と絡めてロシア・東欧の歴史を再検証してから、ますます強まった。彼らがロシアで体験してきた悲惨な歴史を知れば知るほど、本当に悲しい気分になる……。

─────

●ところで、一般に「ユダヤ人」という「人種」は存在しないとされている。ユダヤ教を信仰していれば、誰でも“ユダヤ人”であるという。つまり、ユダヤ人とは宗教的な集団=「ユダヤ教徒」を意味するというわけだ。だから、ルーツが別民族であっても、ユダヤ教を信仰していれば、立派な“ユダヤ人”として認められるという。実際に、ユダヤ人は実に様々な人間で構成されていて、イスラエル国内には黒人系(エチオピア系)のユダヤ人すら存在している。
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(上)1996年1月29日『朝日新聞』(下)1996年1月30日『読売新聞』
1996年1月末、エチオピアユダヤ人はエイズ・ウイルス感染の危険性が高いとして、「イスラエル血液銀行」が同ユダヤ人の献血した血液だけを秘密裏に全面破棄していたことが発覚した。さらにイスラエル保健相が、「彼らのエイズ感染率は平均の50倍」と破棄措置を正当化した。これに対して、エチオピアユダヤ人たちは、「エイズ感染の危険性は他の献血にも存在する。我々のみ全面破棄とは人種差別ではないか!」と猛反発。怒り狂ったエチオピアユダヤ人数千人は、定期閣議が行われていた首相府にデモをかけ、警官隊と激しく衝突した。イスラエル国内は騒然とした。あるユダヤ人たちは言った。「この騒ぎはかつてのアラブ人たちによるインティファーダ(蜂起)に匹敵するほどのものであった」と。
 
●このエチオピアユダヤ人の献血事件について、『読売新聞』は「ユダヤ内部差別露呈」として次のように書いた。
「今回の事件は、歴史的、世界的に差別を受けてきたユダヤ人の国家イスラエルに内部差別が存在することを改めて浮き彫りにした。イスラエルヘの移民は1970年代に始まり、エチオピアに飢饉が起きた1984年から翌年にかけて、イスラエルが『モーセ作戦』と呼ばれる極秘空輸を実施。1991年の第二次空輸作戦と合わせ、計約6万人が移民した。
だが、他のイスラエル人は通常、エチオピアユダヤ人を呼ぶのに差別的な用語『ファラシャ(外国人)』を使用。エチオピアユダヤ人の宗教指導者ケシムは、国家主任ラビ庁から宗教的権威を認められず、子供たちは『再ユダヤ人化教育』のため宗教学校に通うことが義務づけられている。住居も粗末なトレーラーハウスに住むことが多くオフィス勤めなどホワイトカラーは少数に過ぎない。同ユダヤ人はイスラエル社会の最下層を構成している。」
ヘブライ大学のシャルバ・ワイル教授は『とりわけ若者にとって、よい職業や住居を得ること以上に、イスラエル社会に受け入れられることが重要だ』と、怒りが爆発した動機を分析する。デモ参加者は『イスラエルは白人国家か』『アパルトヘイトをやめよ』と叫んだ。『エチオピアユダヤ人組織連合』のシュロモ・モラ氏は『血はシンボル。真の問題は白人・黒人の問題だ』と述べ、同系ユダヤ人の置かれている状況は『黒人差別』によるとの見方を示した。」

●『毎日新聞』は次のように書いた。
ユダヤ人は東欧系のアシュケナジーム、スペイン系のスファラディム、北アフリカ・中東のユダヤ社会出身のオリエント・東方系に大別され、全世界のユダヤ人人口ではアシュケナジームが過半数を占めている。イスラエルではスファラディム、オリエント・東方系が多いが、少数派のアシュケナジームが政治の中枢を握っている。」
エチオピアユダヤ人は、イスラエル軍内部でエチオピア系兵士の自殺や不審な死亡が多いと指摘するなど、イスラエル社会での差別に苦情を呈してきた。たまっていた不満に献血事件が火をつけた格好だ。」
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イスラエル航空の旅客機で救出された
エチオピアユダヤ人たち(1984年)
 聖書ではソロモン王とシバの女王の関係が記されているが、シバの女王から生まれた子孫とされるのが「エチオピアユダヤ人」である。彼らは自らを「ベド・イスラエルイスラエルの家)」と呼び、『旧約聖書』を信奉するが、『タルムード』はない。1973年にスファラディ系のチーフ・ラビが彼らを「ユダヤ人」と認定した。その後、エチオピアを大飢饉が襲い、絶滅の危機に瀕したため、イスラエル政府は救出作戦を実施した。1984年の「モーセ作戦」と、1991年の「ソロモン作戦」である。
イスラエルの航空会社と空軍の協力により
彼らの多くは救出され、現在イスラエル
には約6万人が移住している。
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エチオピアユダヤ人』
アシェル・ナイム著(明石書店
 
●このように「ユダヤ人」の定義は非常にあいまいな状態なのであるが、正直なところ、「ユダヤ人」の定義はユダヤ人同士の間で勝手に決めてくれればいいと思う。他人がとやかく口をはさむことではないだろう。
宗教的な集まりであるならば、それなりに静かにユダヤ教を信仰して、平穏に暮らしてくれればいい。誰だって、余計な問題に首をつっこんで言い争いはしたくはない。ハザール系だろうがエチオピア系だろうが、「ユダヤ人」として生活したいのならば、それでいい。世界の平和を愛して、平穏に宗教的生活を送ってくれれば、それでいい。
しかし、現実はそんな単純ではない。いつもニュースを騒がしている問題がある。いうまでもなく「パレスチナ問題」のことである。
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パレスチナ問題は極めて深刻な状態である。
主にアシュケナジームのシオニストが中心的に動いて、パレチスナに強引にユダヤ国家を作ってしまったのだが、その時の彼らの主張が非常にまずかった。彼らは、自分たちは「血統的」に『旧約聖書』によってたつ敬虔な「選民」であると主張してしまったのだ。単なるユダヤ教を信仰する「ユダヤ教徒」ではなく、『旧約聖書』のユダヤ人と全く同一のユダヤ人としてふるまい、パレスチナに「祖国」を作る権利があると強く主張してしまったのだ。この主張は今でも続いている。
彼らのイスラエル建国によって、大量のパレスチナ人が追い出され、難民化し、殺されている。これは今でも続いている。全く悲しいことである。

●本来なら、ユダヤ国家の建設地はパレスチナ以外でもよかった。ユダヤ教を信仰する者同士が、周囲と争いを起こすことなく仲良く集まれる場所でよかったのだ。
事実、初期のシオニズム運動は「民なき土地に、土地なき民を」をスローガンにしていたのだ。“近代シオニズムの父”であるテオドール・ヘルツルは、パレスチナユダヤ国家を建設することに難色を示し、その代わりにアフリカのウガンダ、あるいはマダガスカル島ユダヤ国家をつくろうと提案していたのである。
多くの先住民が住むパレスチナユダヤ国家を作ったら、大きな問題が起きることぐらい誰でも予測のつくことであった。
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入植候補地の東アフリカ(=ウガンダ案)。ヘルツルはパレスチナにかわる
代替入植地として「ケニヤ高地」を勧めるイギリスの提案を受け入れていた。
 
●しかし、東欧のシオニストたちは、自分たちのアイデンティティの拠り所として、ユダヤ国家建設の候補地は“約束の地”であるパレスチナでしかあり得ないと主張し、ヘルツルの提案に大反対した。さらに東アフリカの「ウガンダ」が候補地として浮上し始めると、東欧のシオニストたちは猛反発し、「世界シオニスト機構」を脱退するとまで言い出した。
ユダヤ教に全く関心を持っていなかったヘルツルにとって、入植地がどこになろうと問題ではなかった。しかし、ナショナリズムに燃えていた東欧のシオニストのほとんどにとって、入植運動は、聖書の“選ばれた民”の膨張運動であって、アフリカなどは全く問題になり得なかったのである。そのため、「ウガンダ計画」に激怒したロシアのシオニストの一派が、ヘルツルの副官にあたるマクス・ノルダウを殺害しようとする一幕さえあった。
翌1904年7月、ヘルツルは突然、失意の中で死去した。わずか44歳であった。
結局、ヘルツルの死が早すぎたことが、パレスチナ入植を推進する東欧のシオニストにとっては幸いとなり、シオニズム運動の内部崩壊はかろうじて避けられたのであった。
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(上)テオドール・ヘルツル
(下)彼の著作『ユダヤ人国家』
“近代シオニズムの父”と呼ばれる彼は
1897年に「第1回シオニスト会議」を
開催して「世界シオニスト機構」を設立した

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↑「第1回シオニスト会議」の入場証
 
●今後も、彼らがパレスチナシオニズム運動を続ける限り、彼らを「ニセユダヤ人」として批判する人は増えていくだろう。シオニズム運動が続く限り、「ユダヤ人」という定義は世界から厳しい目でにらまれ続けることになる。誰が本当のユダヤ人で、誰が非ユダヤ人なのか、イスラエル国内でも常に「ユダヤ人」の定義を巡って大きく揺れている。
※ このシオニズムが抱える深刻な問題については、当館6階のシオニズムのページで具体的に考察しているので、そちらも参照して下さい。

─────

●ところで、ハザール系ユダヤ人問題に触れるとき、必ず、「ユダヤ人という人種は存在しない。なぜならば、『ユダヤ人=ユダヤ教徒』なのだから。『血統』を問題にするのは全くのナンセンスだ」と強く反論する人がいる。
なるほど。しかし、「ユダヤ人=ユダヤ教徒」ならば、なおさら、パレスチナを「先祖の土地」と主張して、そこの先住民を追い払って国を作った連中は、ナチなみのトンチンカンな連中だといえよう。
単なるユダヤ教徒が、『旧約聖書』のユダヤ人の「故郷」だからといって、パレスチナの土地を奪う権利があったのか? 何十年にもわたって無駄な血を流す必要はあったのか? この問題は、将来も長きにわたって歴史家たちの間で問い続けられるだろう。
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(上)イスラエルパレスチナ地方)の地図 (下)イスラエルの国旗
 
●なお、注意して欲しいのだが、アシュケナジーム全てがシオニストというわけでもない。また、アシュケナジームの中には、自らのルーツがハザールであることを自覚して、シオニズムを批判している人もいる。本質的にシオニズムユダヤ思想は別物なのである。

ハザール王国とユダヤ人③『ハザール 謎の帝国』の紹介

■■第3章:『ハザール 謎の帝国』の紹介 ─ 訳者まえがき

●「ハザール王国」の歴史については、旧ソ連アカデミー考古学研究所スラブ・ロシア考古学部門部長のプリェートニェヴァ博士が書いた『ハザール 謎の帝国』(新潮社)が詳しい。参考までに、この本の「訳者まえがき」を抜粋しておきたい。かなり重要なことが書かれている。
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『ハザール 謎の帝国』
✒S・A・プリェートニェヴァ著(新潮社)

──訳者まえがき──

「ハザールの首都発見」のニュースが日本中を駆け巡ったのは訳者が本書を訳しかけていた1992年8月のことである。
カスピ海の小島に防壁と古墳」(毎日新聞)「ユダヤ帝国ハザール幻の首都?─ ロシアの学者・日本の写真家ら発見」(朝日新聞)「東欧ユダヤのルーツ解明に光」(読売新聞)──これらが大新聞の紙面を飾った見出しであるが、謎の国ハザールについての日本最初の大々的新聞報道を胸躍らせて読んだ人はあまり多くはなかったのではなかろうか。それほどハザールは日本ではなじみがない。
ハザールは6世紀ヨーロッパの東部に突如出現した騎馬民族である。出自は定かではないが、民族集団として注目を受けるようになって以来アルタイ系騎馬民族の諸相を色濃く持つ。トルコ系言語を話し、謎めいた突厥文字を使用する。
彼らは近隣の民族を圧倒し、7世紀中頃王国を築き、カスピ海沿岸草原、クリミア半島に覇を唱えるが、キリスト教ビザンチン帝国とイスラム教のアラブ帝国の狭間に立ってユダヤ教を受容して国教とするという史上稀有に近い行動をとる。
王国の底辺を支えた民の人種は雑多と想像されるが、国家建設の中核となったのは、170年余にわたって万里の長城の内外で中国と激烈な死闘を演じ、遂に唐の粘り強くかつ好智にたけた軍事・外交の前に敗れ去り、新天地を求めて西へ走った突厥の王家、阿史那(あしな)氏の一枝であったこともまた興味を引くところである。まさに東西交流の要所にあって、両者を強く結びつける役をはたした民族であり、国家であった。
マホメットの死後まもなくアラブ勢力は急速に強大化し、近辺諸国をかたっぱしから征服し始める。北に向かった大軍勢はコーカサスヘと突入するが、それに立ちはだかったのは雪を頂く峨峨たる山脈だけではない。要所要所を固めていたハザールの組織的軍隊であった。防衛軍は伝統的騎馬戦闘術(例えば馬車による円陣)までも繰り出して、果敢な抵抗を行い、侵入軍を幾度も南へと撃退する。
もし、アラブ軍がコーカサスを通り抜ければ東ヨーロッパは勿論、中央ヨーロッパヘの道は広々と開かれていた筈である。ロシアもポーランドもハンガリア、はては、チェコイスラム化したかもしれない。
ハザールはアラブとの戦役を1世紀あまりにわたり闘い抜き、イスラム勢力の東方からのヨーロッパ侵入をくいとめ、現在あるかたちでのキリスト教世界を守ったのである。それは、カール・マルテル指揮下のフランク王国騎兵軍がピレネーを越えて進撃してきたアラブ軍をトゥール・ポワティエ間の戦で撃退したのに比肩される歴史的大功績であると言うキリスト教世界の学者もいる。
しかし、一方は歴史の教科書に大書され、ヨーロッパ人には常識となるに対し、ハザールの「功績」は忘れられ、無視されてきたのは、そのルーツが我々と同じアジア人であったためであろうか。それとも国教がユダヤ教であったためであろうか。
ユダヤ人はローマ帝国により国家を奪われ、国無しの民として世界に離散流浪し、迫害に晒されるが、中世に至って、ハザールというユダヤ教国が東方の遥かかなたの草原のどこかにあるという噂を耳にし、驚喜し、鼓舞され、ハザール国探索活動を展開する。
最も熱心かつ精力的であったのは、10世紀中葉スペインのコルドヴァ王国の外交・通商・財政の大臣の地位にあったユダヤ人ハスダイ・イブン・シャプルトであった。彼は、恐らく世界各地に張り巡らされていたであろうユダヤ商人の情報・連絡網を頼りに、遂にハザール国王に手紙を届け、返書を受け取ることに成功する。2人の往復書簡は千余年の時の破壊力に耐え、現在に伝えられ、学者によって解読される。また、前世紀末にはカイロのユダヤ教会堂の文書秘蔵室から大量の古文書が出てくるが、その中にハスダイの探索活動やハザールのユダヤ教市民の救済活動に関する文書が発見され、ハザール国の内情がより細密に描けるようになる。
これだけでも伝奇に満ちた一篇の物語となるが、ハザール史そのものは現在に生きる我々に興味尽きない問題と謎を投げかける。中東和平を契機に世界各地でユダヤ人問題への関心が高まっている。政治や国際関係に関心がない人でも、学芸分野や政界・経済界でのユダヤ人天才・実力者の活躍には目を見張らざるを得ない。
このように世界で耳目を集めるユダヤ人の大部分は、モーセなど『旧約聖書』に登場するユダヤ人とは全く関係なく、10世紀末ルシ(ロシア)に滅ぼされた後、東欧に離散したハザールの末裔であるという説が広まっている。もしこれが本当なら、血で血を洗う戦争を繰り返し、今も流血の惨事を日常的にひきおこす原因となったイスラエルの建国とは一体何だったのか、ということになりかねない。そのような説が正しいかどうか、曲がりなりにも判断するためにはハザール史のある程度正しい知識が我々に今必要となろう。
ハザールが東アジアの島国に住む我々日本人にとりなぜ面白いかは、日本の建国に関し騎馬民族説が声高に唱えられるというだけではない。ハザールでは二重王権が実践されていたということが1つの理由となるのではなかろうか。〈後略〉

1996年1月 城田 俊(モスクワ大学大学院終了のロシア語教授)

ハザール王国とユダヤ人②アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」

■■第2章:アーサー・ケストラー以前から存在する「ハザール系ユダヤ人問題」

●一般に、ハザール系ユダヤ人問題といえば、アーサー・ケストラーが有名である。しかし、彼は最初の「発見者」ではない。アーサー・ケストラーよりも前に、既に多くの人がハザール系ユダヤ人問題をとりあげていた。(あまり知られていないようだが……)。主な人物を紹介しよう。

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「ハザール王国」は7世紀にハザール人によってカスピ海から黒海沿岸にかけて築かれた巨大国家である。9世紀初めにユダヤ教に改宗して、世界史上、類を見ないユダヤ人以外のユダヤ教国家となった。
 

イスラエル建国以来、一貫して反シオニズムの立場に立つジャーナリスト、アルフレッド・リリアンソール。彼の父方の祖父はアシュケナジーユダヤ人で、祖母はスファラディユダヤ人であった。彼はアーサー・ケストラーの本よりも2、3年も早く『イスラエルについて』という本を書き、その中で東欧ユダヤ人のルーツ、すなわちハザール人について以下のように述べている。
「東ヨーロッパ及び西ヨーロッパのユダヤ人たちの正統な先祖は、8世紀に改宗したハザール人たちであり、このことはシオニストたちのイスラエルへの執着を支える一番肝心な柱を損ねかねないため、全力を挙げて暗い秘密として隠され続けて来たのである。」

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ユダヤアメリカ人のアルフレッド・リリアンソール。反シオニズムの気鋭ジャーナリストであり、中東問題の世界的権威である(国連認定のニュースレポーターでもある)。
 
●古典的SF小説『タイムマシン』の著者であり、イギリスの社会主義者H・G・ウェルズ(1866~1946年)は『歴史の輪郭』の中で次のように述べている。
「ハザール人は今日ユダヤ人として偽装している」
ユダヤ人の大部分はユダヤ地方(パレスチナ)に決していなかったし、またユダヤ地方から来たのでは決してない」
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有名なイギリス人小説家
H・G・ウェルズ
 
ハーバード大学のローランド・B・ジャクソン教授は、1923年、次のように記している。
ユダヤ人を区別するのに最も重要な要素は……ハザール人の8世紀におけるユダヤ教への改宗であった。これらのハザール人にあって……私たちは東ヨーロッパのほとんどのユダヤ人の起源を、十中八、九までここに見出すのである。」

イスラエルのテルアビブ大学でユダヤ史を教えていたA・N・ポリアック教授は、イスラエルが建国される以前の1944年に『ハザリア』という著書を出版し、次のような見解を発表していた。
「……これらの事実から、ハザールのユダヤ人と他のユダヤ・コミュニティの間にあった問題、およびハザール系ユダヤ人がどの程度まで東ヨーロッパのユダヤ人居住地の核となっていたのか、という疑問について、新たに研究していく必要がある。この定住地の子孫——その地にとどまった者、あるいはアメリカやその他に移住した者、イスラエルに行った者——が、現在の世界で“ユダヤ人”と言われる人々の大部分を占めているのだ……」

●このように、ハザール系ユダヤ人問題は、アーサー・ケストラー以前から存在しているのであり、決して、アーサー・ケストラーが最初の「発見者」ではないのだ。しかし、ハザール系ユダヤ人問題を多くの人に知らしめたという点において、彼は大きな功績を残したといえよう。

●ちなみに、自然科学の教科書の翻訳者であり、出版会社から頼まれて本の校正もしていたユダヤ人学者のN・M・ポロックは、1966年8月、イスラエル政府に抗議したことがあった。彼はその当時のイスラエル国内の60%以上、西側諸国に住むユダヤ人の90%以上は、何世紀か前にロシアのステップ草原を徘徊していたハザール人の子孫であり、血統的に本当のユダヤ人ではないと言ったのである。
イスラエル政府の高官は、ハザールに関する彼の主張が正しいことを認めたが、後にはその重要な証言をもみ消そうと画策。ポロックは自分の主張を人々に伝えるため、その生涯の全てを費やしたという。

──────

●ここで、もう1人、ナイム・ギラディというユダヤ人についても紹介しておきたい。
彼はかつてイスラエルで活躍していたジャーナリストである。彼は典型的なスファラディム(スファラディユダヤ人)で、建国と同時にアラブ世界からイスラエルに移住した。しかし彼が目にしたものは、思いもつかない想像を絶するイスラエルの現状であったという。彼は見たこともないユダヤ人と称する人々(東欧系白人/アシュケナジーム)を見て大変とまどったという。
イスラエル国内ではスファラディムは二級市民に落とされているが、彼はその二級市民の代表として、イスラエルであらゆる運動を展開した。幾度も刑務所につながれたこともあったという。しかし一貫して彼は本当のユダヤ人とは何かを主張し続けた。本当のユダヤ人に対する住宅、社会生活、就職などの改善を訴え続けたのであった。
 


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(上)元イスラエルユダヤ人ジャーナリスト
ナイム・ギラディ。彼は典型的なスファラディムである。
(下)彼の著書『ベングリオンの犯罪』
 
●彼は、1992年秋、スファラディムを代表する一人として日本各地を講演して回った。彼は講演で次のように語った。
イスラエルでは本当のユダヤ人たちが、どれほど惨めな生活を強いられていることか……アシュケナジームを名乗るハザール系ユダヤ人たちが、スファラディムすなわちアブラハムの子孫たちを二級市民に叩き落としているのである。
……まだイスラエルにいた当時、私はパレスチナ人たちに向かって次のように演説した。『あなたがたは自分たちをイスラエルにおける二級市民と言っているが、実はあなたがたは二級ではなく三級市民なのである。なぜならば、アシュケナジームとあなたがたパレスチナ人の間に、私たちスファラディムがいるからだ。そして、私たちもあなたがたと同じように虐げられているのである……』」
 

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イスラエルのアシュケナジー系の政治家が、スファラディユダヤ人に対して
「差別発言」をしたことを伝える記事(1997年8月3日『朝日新聞』)
 
●宗教・民族に関して数多くの著書を出している、明治大学の有名な越智道雄教授は、最近、ハザールとアシュケナジーム(アシュケナジーユダヤ人)について次のように述べている。
「アシュケナジームは、西暦70年のエルサレムの『ソロモン第2神殿』破壊以後、ライン川流域に移住したといい伝えられたが、近年では彼らは7世紀に黒海沿岸に『ハザール王国』を築き、9世紀初めにユダヤ教に改宗したトルコ系人種ハザール人の子孫とされてきている。10世紀半ばにはキエフ・ロシア人の侵攻でボルガ下流のハザール王国首都イティルが滅び、歴史の彼方へ消えていった。彼らこそ、キリスト教イスラム教に挟撃された改宗ユダヤ教徒だったわけである。
2つの大宗教に呑み込まれずに生き延び、後世ポグロムホロコーストに遭遇したのが、このアシュケナジームだったとは、ふしぎな因縁である。〈中略〉現在、スファラディムが数十万、アシュケナジームが一千万強といわれている。」

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↑西インド最大の都市ムンバイ(旧ボンベイ)で生活する
「ベネ・イスラエル」と呼ばれるインド系ユダヤ人(1890年)
※「ベネ・イスラエル」とは、インド原住のユダヤ人を指す言葉で、
ヘブライ語では「イスラエルの子」を意味する。この共同体はインドの
 約1500年前にまで遡り、その中心はムンバイとコーチンであった。
 
イスラエル共和国を去ったユダヤ人女性ルティ・ジョスコビッツは、著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房)で素直な気持ちを述べている。
イスラエルにいたとき、ターバンを巻いたインド人が畑を耕作しているのを見た。どこから見てもインド人で、インドの言葉、インドの服装、インドの文化を持っていた。しかし彼らがユダヤ教徒だと聞いたとき、私のユダヤ民族の概念は吹っ飛んでしまった。
同じように黒人がいた。アルジェリア人がいた。イエメン人がいた。フランス人がいた。ポーランド人がいた。イギリス人がいた。まだ会ってはいないが中国人もいるそうである。どの人々も、人種や民族というより、単なる宗教的同一性としか言いようのない存在だった。〈中略〉私の母はスラブの顔をしている。父はポーランドの顔としかいいようがない。私もそうなのだ。」
「私はイスラエルで一つの風刺漫画を見た。白人のユダヤ人がイスラエルに着いたら、そこは純粋なユダヤ人の国だと説明されていたのに、黒人もアラブ人もいたのでがっかりした、というものだ。この黒人もアラブ人もユダヤ教徒だったのだ。彼は自分の同胞に有色人種がいたので、こんなはずではないと思ったのである。」
 

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(上)ユダヤ人女性のルティ・ジョスコビッツ
(下)彼女の著書『私のなかの「ユダヤ人」』(三一書房
※ この本は1982年に「集英社プレイボーイ・
ドキュメント・ファイル大賞」を受賞
 

ハザール王国とユダヤ人①2種類のユダヤ人

■■第1章:2種類のユダヤ人 ─ アシュケナジームとスファラディ

●なぜか不思議なことに、「ユダヤ人」という語の定義は、学問的にも政治的にも非常にあいまいな状態に置かれている。
このテーマを取り上げると必ず、「ユダヤ人という民族はそもそも存在しないのだ」とか「ユダヤ人は人種ではなく、ユダヤ教に改宗した者がユダヤ人になるのである」という主張が一般の研究者の間から出て来る。彼らはそれを主張してやまない。
ユダヤ人国家イスラエル共和国においてはどうかというと、移民に関する法律「帰還法」において「ユダヤ教徒ユダヤ人」という定義を正式に採用している。しかし、本人がユダヤ教徒でなくても、母親がユダヤ人ならばユダヤ人であるが、母親が非ユダヤ人である場合、父親がどうであろうと、本人はユダヤ人ではないという、チンプンカンプンでややこしい定義になっている。ちなみにユダヤ人が他の宗教へ改宗した場合、ユダヤ教ではその人を終生ユダヤ人とみなすという。

●いずれにせよ彼らの定義に従えば、他の民族が「ユダヤ人」になるには、ユダヤ教に改宗すればいいわけで、インド人でも黒人でもユダヤ教に改宗してユダヤ人になろうと思えばなれるというわけだ。しかし、ユダヤ教に改宗するためには聖書やヘブライ語を学ぶほか、ユダヤ教の宗教法に従って、ラビ(導師)の指導を受けながら、改宗の手続きを取っていくのだが、審査は非常に厳しいという。
実際に、日本ではおもに結婚を理由に、男女合わせて数十名がユダヤ教に改宗しており、最近では名古屋市の牧師が、宗教的信条ゆえにユダヤ教に改宗した例もある。もっとも、ユダヤ教は伝道活動をしないので、改宗者が大幅に増えることはないという。

●ところで、ノーベル賞受賞者の3分の1以上はユダヤ人といわれているが、マルクスフロイトアインシュタインチャップリンキッシンジャーなどなどといった数多くの有名ユダヤ人たちは、不思議なことにほとんど白人系である。一体どうして世の中には「白人系のユダヤ人」が数多く存在しているのか? 本当のユダヤ人は白人では決してないはずである。
旧約聖書』に登場するユダヤ人に白人は1人もいない。彼らは人種的に「セム系」と呼ばれ、黒髪・黒目で肌の浅黒い人々であった。モーセダビデ、ソロモン、そしてイエスもみな非白人(オリエンタル)だったと記述されている。
 

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↑英BBCの科学ドキュメンタリー
番組『神の子』が最新の科学技術を駆使
して復元したイエス・キリストの顔
(中東男性の顔つきをしている)
※ 詳細はココをクリック
 

●一般にユダヤ社会では、白人系ユダヤ人を「アシュケナジーユダヤ人(アシュケナジーム)」と呼び、オリエンタル(アジア・アフリカ系)ユダヤ人を「スファラディユダヤ人(スファラディム)」と呼んで区別している。
アシュケナジーとは、ドイツの地名にもなっているように、もとはアーリア系民族の名前であった。一方、スファラディとは、もともと「スペイン」という意味だが、これは中世ヨーロッパ時代のユダヤ人たちの多くが地中海沿岸、特にイベリア半島(スペイン)にいたことに由来している。
8世紀以前の世界には、ごくわずかな混血者を除いて、白人系ユダヤ人はほとんど存在していなかった。それがなぜか8~9世紀を境にして、突然、大量に白人系ユダヤ人が歴史の表舞台に登場したのである。いったい何が起きたのか?

●自らアシュケナジーユダヤ人であった有名な思想家アーサー・ケストラーは、「白人系ユダヤ人の謎」に挑戦した。彼は若い頃からユダヤ問題に関心を持ち、シオニズム運動に参加し、ロンドン・タイムズのパレスチナ特派員を経て、1957年にはイギリス王立文学会特別会員に選ばれていた。彼は白人系ユダヤ人のルーツを丹念に調べ、1977年に最後の著書として『第13支族』を著した。彼は白人系ユダヤ人のルーツはハザール王国にあると主張した。
ケストラーの『第13支族』が出た当時、世界的に有名な新聞などがこの著書を絶賛してやまなかった。この本は、科学や思想が中心のケストラーの著作としては異色の書で、その内容は世界史の常識・認識を根底から揺さぶるほどの問題作であり、あまりの衝撃ゆえ、翻訳出版を控えた国も出た。1983年3月にケストラーが夫人とともに謎の自殺を遂げた時、当時の新聞の死亡記事に記載された彼の多くの著作リストの中には、この『第13支族』は省かれていた……。

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(上)有名なユダヤ人思想家アーサー・ケストラー
(下)1977年に出版された彼の最後の著書『第13支族』
※ 彼はこの本の中で白人系ユダヤ人のルーツは「ハザール王国」にあると主張した。
 

ハザール王国史(年表)

 

ハザール王国史

 

─ 年表 ─

 

■371年
フン族黒海沿岸北部を占領する。
■375年
フン族の民族大移動が始まる。
■395年
ビザンチン帝国、パレスチナ全土を支配(~639年)。
■448年
ビザンチン帝国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、戦士民族としてのハザール人が登場。
■453年
フン帝国の崩壊。ハザール人、コーカサス北部を中心に勢力を拡大。
■552年
突厥(西トルコ帝国)国家成立。ハザール人、突厥の配下に組み込まれる。
■553年
ユスティニアヌス帝が「反ユダヤ法」を発令。
以後、ビザンチン帝国は全史を通じて、ユダヤ人が帝国の行政的な地位に就くことも、青少年を教育することも、勅令によって禁じたのである。
■627年
ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結。ハザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォンに迫った。なお、この時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場である。
■650年頃
突厥(西トルコ帝国)分裂し滅び、ハザール人支配を離れる。
ハザール王国の建国。
■652年
コーカサス諸国にアラブ(イスラム)帝国支配確立する。
翌年、アラブ軍の第1回ハザール王国遠征(第1次アラブ戦争)。アラブ軍、撃破される。
■655年
クリミア半島、ハザール軍に占領される。
■684年
ハザール軍、裏コーカサスに来襲する。
■711年
ハザール軍、裏コーカサスを蹂躙する。
■713年
マスラマ率いるアラブ軍、デルベントを占領し、ハザール王国深く侵入する。
■721年
ジェラーフ率いるアラブ軍、ハザール王国に遠征し、ベレンジェルを攻略する。(第2次アラブ戦争/~737年)
アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。
■730年
ハザール王ブラン、個人的にユダヤ教を受容する。
ハザール軍、アルバニアに侵入し、アルデビールを攻略し、ジェラーフ率いるアラブ軍を撃滅する。
■732年
後のビザンチン皇帝コンスタンチヌス5世(当時皇太子)、ハザールの王女チチャクと結婚。チチャク、洗礼を受けてイレーネの名を貰う。
マルワーン率いるアラブ軍、デルベントとベレンジェルに遠征する。
■735年
マルワーン率いるアラブ軍、ハザール王国に遠征する。
このマルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍になる。
■737年
マルワーンのアラブ軍、2つの峠からハザール軍に奇襲をかける。ハザール軍はボルガ川まで退却し、マルワーンに講和を求めることを余儀なくされる。
これによって、721年に始まった第2次アラブ戦争終了。
ハザール王、イスラム教を強制的に受け入れる。しかしこれは儀礼にすぎず、ほとんどすぐ取り消された。
※ 8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、最後にボルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係も、明らかに友好的な状態が続いていた。
この頃からハザール王国は経済的には黄金時代に入る。
ビザンチンアルメニアバグダードの商人たちが新首都イティルに集まり、蝋、毛皮、皮革、蜜などの取引に従事。ハザール王国は彼らに課税することで莫大な利益を得た。自らも牛、羊、奴隷を輸出。また、ボルガ川カスピ海経由のヨーロッパ=イラン貿易路を開拓、沿岸都市の発展を招くなど、東西交通史上重要な役割を果たした。アラブ人はカスピ海を「ハザール海」と呼んだ。
■775年
「ハザールのレオン」と呼ばれる、レオン4世(皇帝コンスタンチヌス5世、ハザールの王女との子供)がビザンチン帝国の皇帝として戴冠する。(~780年)
■799年
ハザール王オバデア、国政改革に乗り出す(~809年)。ハザール王国は公式にユダヤ教を受容する。(ユダヤ人以外のユダヤ教国家の誕生)
■830年頃
バイキングのルス人(後のロシア人)が侵入。ビザンチン帝国を相手に略奪をはじめる。(930年頃まで)
■834年
ハザール王は、ビザンチン帝国に北方への防御(対ルス人対策)のための砦サルケルを築くための援助を求め、直ちに建設された。
■835年頃
ハザール王国で「カバール革命」が起き、王国内の反乱分子(カバール・ハザール人)が国外に逃亡。
亡命した有力貴族はルス商人団と合流し、この貴族の息子とルス商人団の長の娘との婚姻が行われた。こうして「ルーシ・ハン国」(後のキエフ・ロシア国の前身)が成立した。
また、残りのカバール・ハザール人はマジャール人と合流し、指導者層となってハザールの影響を及ぼした。
■860年
ビザンチン帝国からハザール王国に「キリスト教布教特別使節団」が派遣された。使節団長はスラブ文字の創造者として名高いキュリロス(コンスタンティノス)であった。ユダヤ教イスラム教を相手にした論戦に参加して、ハザール王をキリスト教に改宗させることを試みるものの、失敗に終わる。
■862年
ハザール支配のドニエプル川沿いの重要都市キエフが、ルス人(後のロシア人)の手に渡る。
■864年
ルス人がハザール支配のタバリスタンのアバスクンの港を攻撃したが撃退される。(884年にも起こる)
■881年
ハザール人とマジャール人がフランク人と戦闘状態となる。
■882年
ルス人によるキエフ・ロシア建国
■889年
ペネチェグ人がハザール王国に侵入しようとして撃退され、マジャール人の地へ侵入。マジャール人ドニエプル川とセレト川の間のエテル・ケズに移動した。
■890年
マジャール人のアルパード、ハザールから侯に叙せられる。
■896年
ペネチェグ人が再び侵攻してきて、マジャール人ハンガリーへ移動し定住し、ハンガリー人となり、ハザール人との同盟は終わる。
■910年
ルス人が3度、タバリスタンのアバスクンの港を攻撃し、居住のイスラム教徒の捕虜を奴隷として売るために連れ去った。
■912年
ルス人の軍がボルガ川からカスピ海へ侵入。
カスピ海沿岸のイスラム教国とルス人が武力衝突をし、ルス人は周辺支配地域で略奪をした。
■913年
800隻からなるルス人の大艦隊がカスピ海を侵略。カスピ海沿岸で大量の殺戮が起きる。
この侵攻によって、ルス人はカスピ海に足場を築く。
■922年
アラブの旅行家イブン・ファドラン、ボルガ川地方を旅行し、『手記(リサラ)』を残す。
■932年
ハザール・アラン戦役。ハザール軍、勝利する。
■941年
イーゴリ・イングヴァル大公、ビザンチン帝国を急襲し侵入し虐殺・略奪・破壊を行ったが、ビザンチン軍に撃退される。
■945年
ルス人はロシア人となり、そのイーゴリ・イングヴァル大公、ビザンチン帝国と通商条約を結ぶ。ロシアからビザンチン帝国ヘ兵を供給する軍事同盟も結ばれた。
■950年頃
ビザンチン皇帝コンスタンチヌス・ポルフィロゲニトウス、宮廷儀礼に関する論文の中でハザールについて触れる。
■954年
スペイン・コルドバのカリフの総理大臣だったユダヤ人ハスダイと、ハザール王ヨセフとの間に『ハザール書簡』が交わされる。
■965年
キエフ・ロシア国のスビャトスラフ(イーゴリの息子)、ハザールの防衛の砦サルケルを陥落させる。スビャトスラフによるイティル(ハザール王国首都)の破壊。
■973年
ハザール繁栄の記録の年代
■985年
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公、ボルガ・ブルガール国およびハザール王国に遠征する。
■986年
ハザール王国のユダヤ人が、キエフ・ロシア国に行きウラジーミル大公をユダヤ教を受容させようと試みたが、失敗。これ以後、ハザール・ユダヤ人は、ロシア人に改宗を挑んだ者としてキリスト教会側から敵意をもって見られるようになってしまう。
■988年
キエフ・ロシア国のウラジーミル大公、ビサンチン帝国からキリスト教を受容。
ロシア正教会の誕生(のち、ロシア民族の公式宗教となる)。
また、ビザンチン帝国の王女アンナとの結婚。
この頃、ハンガリー人、ポーランド人、スカンジナビア人、アイスランド人などがローマ教会に改宗する。
ハザール人のハンガリーへの流入増える。
■1016年
ロシア・ビザンチン連合軍がハザールへ侵攻し、ハザールが敗退する。
※ 首都イティル陥落によってハザール王国は大きなダメージを受けたが、それ以後13世紀半ばまで領土こそ縮小したものの独立を保ち、ユダヤ教の信仰も維持し続ける。
■1023年
ロシア人がハザールの占領地からハザール人の兵を強制徴兵する。
キエフ・ロシア国のムスチスラフ軍の中にハザール人部隊の名前が登場。
■1030年
ハザール人、侵入してきたクルド軍を撃退
■1079年
トムトロカニのオレグ・スヴャトスラヴィチ侯、ハザール人により捕らえられビザンチン帝国に護送される。
■1083年
オレグ・スヴャトスラヴィチ侯、トムトロカニに帰還し、ハザール人に報復する。
■1100年
12世紀、ハザール・ユダヤ人の間にメシア運動起こる。
■1106年
ロシアに侵入してきたクマン人(ポロヴェツ人)を撃退するために送った兵の将軍に、ハザール人イワンの名の記述。
■1140年
スペインで最も偉大なユダヤ詩人といわれていたユダ・ハレヴィ、哲学的な小冊子『ハザール人(ハ・クザリ)』の中で、ハザール人のユダヤ教改宗に言及。
■1154年
ハンガリー軍の中のユダヤ教を信じる一団の記録。
■1180年頃
ドイツの有名なユダヤ人旅行家ラビ・ペタチアは、東欧と西アジアを歴訪し、『世界をまわる旅』を出版。彼は旅の途中にハザール王国の中心部を8日間かけて横切ったが、ハザール人のユダヤ教の内容を知って、ショックと怒りを感じたという。なぜならば、ドイツの正統なラビ(ユダヤ教指導者)であった彼にとって、ハザール人のユダヤ教の教えは、いかにも原始的で嫌悪すべき異端の教えでしかなかったからだという。
■1222年
ハンガリーマグナカルタ(大憲章)ともいうべき『黄金教書』がアンドルー2世によって公布。そこでは、ユダヤ人は造幣局長官、収税吏、塩の専売管理人となることが禁じられた。
■1223年
ロシアの地にモンゴル軍が出現。この時のモンゴル軍はチンギス・ハンの大遠征の別働隊で、カスピ海の南回りでカフカーズを通り、南ロシアを荒らした。
■1236年
チンギス・ハンの遺命により、チンギス・ハンの孫のバトゥ・ハンがヨーロッパ遠征に出発した。
ボルガ河畔からロシアに侵入したバトゥ・ハンの遠征軍は、キエフ・ロシア国を壊滅させ(キエフ占領)、ロシアの主要都市を次々と攻略した。さらにその一隊は、ポーランドハンガリーまで攻め込んだ。
■1243年
キプチャク汗国成立。ハザールの地はバトゥ・ハンの権力下に吸収される。
こうして、キプチャク汗国はロシアの大部分を支配することになり、その領土の外側にあった諸公国も従属関係に入り、ここに歴史家の言う「タタールのくびき」が始まった。
■1246年
ローマ教皇からモンゴルへの使節団、ハザールのかつての首都イティル(サライ)に到着。
ユダヤ教を信じるハザール人の記述。
■1346年
キプチャク汗国がクリミア半島のカッファの城塞を包囲。軍勢を率いるのはキプチャク汗国の皇帝ジャニベグ・ハン。この城塞を陥落させて、ハザール・ユダヤ商人の富を奪い去ろうと決然と攻撃を仕掛けてきたのである。「黒死病」の発生。
※ モンゴル軍の侵入に伴って、ハザール・ユダヤ人たちはロシア・東欧へ移住し、後のいわゆるアシュケナジーム(アシュケナジーユダヤ人)の中核を形成する。