ハザール王国の歴史①ハザール人と「ハザール王国」の誕生

■■第1章:ハザール人と「ハザール王国」の誕生

北コーカサス地方で最も力のある種族となったハザール人

●ハザールの揺籃の地は、カスピ海沿岸の草原の地である。この草原には多種多様な民族が居住し、東方の旅行家・地誌家も、またビザンチン帝国(東ローマ帝国)の著作家も、これら諸民族が絡む様々な事件・事変について記録を後世に残している。
ただし、ハザール人がいつ頃登場したのか、具体的な記録はない。448年、ビザンチン帝国からフン族のアッチラ大王への使節団報告の中に、「戦士民族」としてのハザール人が登場している。この時期のハザール人はフン族の配下で活動していたようである。

●アッチラ大王の死後、フン帝国が崩壊すると、東ヨーロッパに権力の空白地が生じた。そこを通っていくつもの遊牧民が、波が打ち寄せるように次々と東から西から押し寄せてきた。
6世紀初頭、ササン朝ペルシア帝国のカワード1世の治世、ハザール人はコーカサスの向こうの地域、すなわちグルジアアルバニアアルメニアを占領した。6世紀半ば、カワード1世の息子であるホスロー1世の治世にも、ハザール人のペルシア国境地帯、特にアルメニアアルバニアへの侵入は、止むことがなかった。
この時期、ハザール人はコーカサスの北にいる種族の中で最も力のある種族となった。その後、ハザール人は台頭してきた突厥(西トルコ帝国)の配下に組み込まれたが、帝国内でも最強の実戦部隊として活躍した。

●627年、ビザンチン帝国の皇帝ヘラクレイオスは、ササン朝ペルシア軍との戦いに備えてハザール人と軍事同盟を締結。ハザール人はこの対ペルシア遠征軍に4万人の援軍を出し、ペルシアの首都クテシフォンに迫った。なおこの時がビザンチン史料におけるハザール人の初登場である。
 
■「ハザール王国」の誕生

●7世紀中頃、カスピ海沿岸草原においてハザール王国(ハザール汗国)の創成が開始された。権威を誇った突厥(西トルコ帝国)は分裂し滅び、ハザール人は彼らの支配から離れることができた。ハザール人は自らを「西突厥」の継承者と名乗った。
ハザール人は勢力を急速に拡大していき、アゾフ海沿岸のブルガール人を服属させ、黒海沿岸北部も手中に納め、はては、クリミアの草原の大部分を占めるまでに至ったのであった。(クリミア沿岸諸都市もハザール王国に組み込まれた)

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