ハザール王国の歴史②「アラブ帝国」との戦いと「ビザンチン帝国」との同盟

■■第2章:「アラブ帝国」との戦いと「ビザンチン帝国」との同盟

■ハザール王国と「アラブ帝国」との戦い

北コーカサス山麓や隣接草原において、ハザール王国が国力を充実させていた頃、新たな敵が南方から台頭してきた。アラブ帝国イスラム帝国)である。アラブ軍は、シリアとメソポタミアを蹂躙するや、そのまなざしを北方に向け始めたのである。裏コーカサス諸国はアラブ軍との戦争で火の手に包まれるようになった。
7世紀の半ばから、アラブ軍は組織的に裏コーカサス攻撃を繰り返し、略奪を欲しいままにするようになった。アラブ軍は繰り返しハザール王国の領土に侵入し、都市を略奪して、破壊し、集落を焼き払い、耕地・農園を蹂躙し、冬営地から家畜群を強奪し、住民を捕らえ、奴隷として連れ去るのを常とした。

●ハザール王国とアラブ帝国イスラム帝国)は、大きな戦争を2回している。653年の「第1次アラブ戦争」と、721年の「第2次アラブ戦争」である。
「第1次アラブ戦争」は、アラブ軍がハザール王国に遠征して、撃破された。「第2次アラブ戦争」は、ジェラーフ率いるアラブ軍がハザール王国に遠征して、ベレンジェを攻略したのがきっかけで始まり、737年までの16年間続いた。

●「第2次アラブ戦争」において、アラブ遠征軍に攻撃されたハザール軍は、アルバニアに侵入して、アルデビールを攻略し、アラブ軍を撃滅。しかし、新たにマルワーン率いるアラブ軍が遠征してくると、ハザール軍は2つの峠から奇襲をかけられ、ボルガ川まで退却。最終的に、アラブの将軍マルワーンに講和を求めることを余儀なくされたのであった。
この「第2次アラブ戦争」は、アラブ史料では、双方合わせて10万あるいは30万の兵士が従軍したという。そして、マルワーンはハザール王国を攻撃した最後のアラブ将軍となり、これ以降、ハザール王国とアラブ人の戦争に関する記録はない。

※ 650年に成立したアラブ帝国は、711年にジブラルタルを渡ってスペインに侵入、ピレネー山脈をこえてフランクにはいったが、732年トゥール・ポワティエで敗北し、西への進出は終了。東は中央アジアまで進出したが、751年タラス河畔の戦いで唐に敗れ、100年間におよんだアラブの征服戦争は終了したのである。
 
■ハザール王国と同盟関係にあった「ビザンチン帝国」

●ハザール王国はササン朝ペルシア帝国、ついでアラブ帝国と激しい戦いを繰り返したが、その両国と敵対していたビザンチン帝国(東ローマ帝国)とは同盟関係にあった。これまで、この二大勢力は互いに戦ったことは一度もなかった。それどころか、ハザール王国はしばしばビザンチン帝国の敵と戦った。それは明らかにビザンチン帝国に有利となることだった。

●8世紀のアラブ侵略以後、ハザール王国の首都はカスピ海沿岸西岸のサマンダルに移され、最後にボルガ河口のイティルに移った。ハザール王国の南方の前線は平定され、イスラム教国との関係も落ち着いて、暗黙の停戦協定にまで至った。ビザンチン帝国との関係も、明らかに友好的な状態が続いていた。9世紀に入って数十年の間、ハザール王国は平和を享受した。

●ハザール王国とビザンチン帝国の友好関係は、次の出来事に大きく象徴されている。
ビザンチン帝国を775年から780年まで支配したレオン4世。彼はハザール王室の血を持つ皇帝で、「ハザールのレオン」と呼ばれていた。彼は、前皇帝コンスタンチヌス5世と、ハザールの王女チチャクとの間に生まれたハーフであったのだ。この結婚は、ビザンチン帝国とハザール王国の友好を願って、732年に行われたものだった。

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