阿弖流為と蝦夷

8世紀前後。時の日本は大化の改新壬申の乱を経て律令国家の体裁を整備し、710年平城京に遷都する。仏教の影響が徐々に強まり朝廷は東大寺の大仏の造立に着手。東国攻めも北上し柵を設けて朝廷に従属させていく。724年に現在の仙台の少し南に多賀城を作ったまでは良かったのだが、そこから北の制圧がなかなか進まない。

そんな時、小田郡で豊富な黄金が発見され、朝廷は何が何でも金が欲しくなった。小田郡の金があれば、開眼間近の大仏にもたっぷり貼れるし、寺をたくさん作ることが出来る。陸の奥に暮らす蝦夷(えみし)は卑しき者だ、じゃんじゃん兵を出して屈服させてしまえ~!

一方、陸奥蝦夷達は慌てた。これまでずっと貧しくも平和に暮らしていたのに朝廷とやらが攻めて来るという。しかも自分達蝦夷を卑しい奴等と言っている。

人間として見ていない。
屈服するか?
戦う?
…戦おう!
子孫のために蝦夷の誇りを見せよう!

ということになって、リーダーに祭り上げられたのが、胆沢の長・阿久斗の倅である阿弖流為アテルイ)であった。

アテルイ、その時18歳。

その若者に
黒石の智恵者・母礼(もれ)
強き従者・飛良平(ひらて)
陸奥の地域の長である気仙の八重嶋(やそしま)
志和の阿奴志己(あぬしこ)
江刺の伊佐西古(いさしご)
そして膨大な金品と都の情報を提供した東和の物部天鈴(もののべのてんれい)

物量、人数において圧倒的に不利な蝦夷だったが、騎馬隊を組織・訓練し、奇襲を仕掛け、山に砦を作り、十倍、時には二十倍もの朝廷軍を迎え撃って撃破する。何度も何度も。

それでも朝廷は攻撃を止めない。桓武天皇は山城京に次いで平安京に遷都を計画しており、天皇の威光を内外に示す必要があったし、何かと物入りでもあったから陸奥が欲しかった。

しかし、どんなに大軍をつけても負けてばかりいる官軍。そこでとっておきの「ピカ一」を出して来た。坂上田村麻呂。彼は多賀城で幼少の時代を過ごし阿弖流為とは幼馴染みの間柄。戦いにくい。蝦夷が都の人間と同じ人間であることを良くわかっている。悩みぬいた末、田村麻呂は無用な戦いは止めようと提案するが、アテルイは勝手に攻めて来ての和議は無いだろうと断る。

しかし、もう戦い始めて22年も経って
いる。故郷は疲れ果てている。蝦夷を守るために決心したアテルイは、母礼と2人で朝廷軍に投降し捕われの身となる。802年、2日間首から下を土中に埋められて晒された後2人は斬首される。

最後にアテルイは周囲に叫ぶ。「俺たちはなにも望んではおらぬ。ただそなたらとおなじ心を持つものだと示したかっただけだ。蝦夷は獣にあらず。鬼でもない。子や親を愛し、花や風に遊ぶ。俺は蝦夷に生まれて、俺は幸せだった。蝦夷なればこそ俺は満足して果てられる」

朝廷に屈しない「まつろわぬモノ」は蝦夷に限らず、南の「隼人」とか、2月に行った大分では「土蜘蛛」なんて呼ばれていたのだ。国を統一する立場とされる立場の矛盾。吉川弘文館の『日本史年表』には「801年坂上田村麻呂蝦夷を平定」とだけあった。